普遍主義と世界主義

相変わらずであるが。

憲法学者vs.オールド・リベラリスト – アゴラ

なんでいちいち...。
さらりと、こういう「嘘」をつく。

私と同じで、国際法の論理の中で、日本国憲法を理解すべきだ、ということだ。

 『の中で』ということは、絶対にありえない(これは、国際法一元主義の宣言であるから※1)。それは『調和』ではない(篠田の云う『調和』とは、解釈上の源泉のことで、しかも「孫引き」による解釈という、経緯から切り離されて在る文理解釈を無視したアクロバットな論を展開する。さすが、自然法学者というべきなのか?※2法実証とは真逆な態度であるーしかし、それは、下で指摘した国際法と国際関係の歴史から考えると、非常に危険な態度と言わざるを得ない)。
国際法憲法体系は独立していて、相互に対象となるに過ぎない。
(それは、「憲法を」)
それは、どういう表現が用いられるかを見ればわかる。すなわち、人権である。国際法は人権を単位(基礎)として構成されているのではない、と言うだけで、十分なのである。篠田は、抽象的な理解ができない、「昭和の(文系)知識人」の典型なのである。基礎物理学者でなく、さりとて応用物理学者でもなく、物理史学者なのである。文献学者である。

※1国際法一元主義は、別に、国際法理解の主流ではない。篠田の選好するイデオロギーに過ぎない。
※2これはもちろん、疑問を呈しているのであって。木村と篠田の「論争」は、自然法のアプローチとは何かを問う争いであるともいえる。それは、法が科学主義ではなく経験主義に留まること意味であり、直観主義論理を生んだ排中律を巡る問題意識に連なる。その中間項の取り扱いについて、篠田は国際法のドグマを以てし、木村は道徳的経験を以てし※3、日本国憲法は国会(による、プラグマティズム)を以てするのである。※3「カテゴリアルな消去」とは、フレーム問題のバリエーションの一つで、無限のフレームの可能性の中からそれを選ぶための規範的動機を持つことを肯定して、行為に帰着して考える方法である(表現主義ー立法もひとつの行為であり、法はそのようなひとつの表現である)。

国際法」ということなら、篠田は少し👇のようなものも勉強して、自己を対象化したほうがよい。

「もう一つの近代」という希望――長い帝国崩壊の過程のなかで / 『イスラーム主義』著者、末近浩太氏インタビュー (1/2) 

イスラーム主義――もう一つの近代を構想する (岩波新書)

イスラーム主義――もう一つの近代を構想する (岩波新書)

 

 これがなぜ、興味深いかというと、日本も、近代化を目指して以降、常に「もうひとつの近代」を模索していたからだ。 

markovproperty.hatenadiary.com

 

林 銑十郎(はやし せんじゅうろう、1876年(明治9年)2月23日 - 1943年(昭和18年)2月4日)
大川 周明(おおかわ しゅうめい、1886年明治19年)12月6日 - 1957年(昭和32年)12月24日)
井筒 俊彦(いづつ としひこ、1914年5月4日 - 1993年1月7日)

芦田 均(あしだ ひとし、1887年(明治20年)11月15日 - 1959年(昭和34年)6月20日
田中 耕太郎(たなか こうたろう、1890年(明治23年)10月25日 - 1974年(昭和49年)3月1日)

大正デモクラシー(たいしょうデモクラシー)とは、日本で1910年代から1920年代にかけて(概ね大正年間)に起こった、政治・社会・文化の各方面における民本主義の発展、自由主義的な運動、風潮、思潮の総称である。信夫清三郎『大正デモクラシー史』(1954年)がこの言葉の初出である。
Wikipedia大正デモクラシー』)

民本主義(みんぽんしゅぎ)とは、法学的問題である「主権の所在」を問わず、人民多数のための政治を強調する主義のこと。「democracy」の訳語であり、最初に使ったのは茅原華山といわれる。
Wikipedia民本主義』)

 なお

芦田は東京帝国大学を卒業後、1912年に外務省に入り外交官となった。最初の勤務地ロシアではロシア革命に接し、1918年に赴任したフランスではパリ講和会議を目にしている。1925年には一等書記官として、日土間の国交樹立にともないトルコ・イスタンブールに開設された日本大使館へ赴任した。
Wikipedia芦田均』)

国際法憲法を考える際に、大英帝国(議会主権)と国際連合主権国家群)の関係並びにスェーデン(一般法)とノルェイ(憲法)の関係(を許す、当時の国際=ヨーロッパに於ける法秩序)の参照は、必須であると思う。☞スウェーデン=ノルウェー - Wikipedia