日本国憲法第9条はまともに論じられたことがない

国立国会図書館の研究員の論文参照※)
集団的自衛権」と「集団安全保障」とは別の文脈持った概念であって、憲法問題として論じるときは、その2つの文脈が(独立に)憲法内に生成しているかどうかを見なければならない。たとえば、大雑把にではあるが分かりやすく、このような区分けができるのではないだろうか。
※メディアに出てくる「学者」(専門、非専門問わず。また、学者以外の知識人を含む。)は全員「眉唾」であるが、信頼できる研究者もちゃんといる。

 国際法上の概念 枠組み 参照される議論   日本国憲法上の文脈  議論の行方
集団的自衛権 「 世界」の外の"敵" 正当防衛論等
※1
 自然権
※2
自然な権利ゆえに、憲法に先立ち、超越する(憲法上は、⦅形性的ではなく⦆確認的権利)が、実装としては、対応関係を以て「より小さく」(自衛のための必要最小限の実行力で)あるように様相的、動的であるために『潜在すれども、具現(顕現)せず』
(有志連合)        
集団安全保障 「 世界」の内の"罪" 共犯関係 芦部文言
(と憲法前文※3

「『前項の目的を達する』意図に依らない」場合の主観的な認識並びに客観的な認識が問われるとき、「そもそも『集団安全保障』の軍事力の一部として加わること」(集団安全保障"体制"は軍事力だけで成立するか)とは別に、意図の放棄の具体化の手続き(手続きによる正当化)に関して、「(瑕疵ある)国連決議に従う」「(瑕疵ある)作戦指導に従う」ことが解釈上の議論となる。

※1 集団的自衛権を正当防衛で説明しきれないことは、国会図書館研究員の報告にある通りだが、集団的自衛権が正当防衛を以て論じられ始めた経緯に則して
※2 自然権を外挿しなくとも、構造的にも導けると思うが、今のところもっとも説得的であるため
※3 憲法前文から規範が直ちに導けるかどうかは議論があって、何ら導けないという古典的解釈から転回して今では、直接の規範は導けないが、条文解釈上の補助(線)的役割を(積極的にはともかく)消極的に果たすことくらいはできるという解釈が穏当な理解である(より積極的に前文を活用してゆこうとする理解もあるが、性急であるように思う)。


(備考)
憲法第7条の解散についての、芦部の主張した通説について。
かなり無理があると思う。
日本国憲法がアメリカ法の系譜に連なることはそのとおりであり、芦部は、アメリカ法を研究してその成果を日本にもたらした功績があり、日本におけるその権威であったが、日本国はアメリカ合衆国と異なりコモン・ローを持つわけではなく、それと表裏一体で、日本国憲法は、エリート主義を排した、強い国会を中心とした大衆民主主義を企図しているのであって、このような日本国憲法の性質、その精神に鑑みるならば、法文言で実証されない解釈を安易に外挿すべきではない。アメリカ的なプラグマティズム普通選挙で実装されているのである。ならば、国会解散にも、憲法第7条に関する限り、何ら条件を付されているのではなく、(選挙を通じた)国民審判に関して、(直接民主主義を採っているわけではないので、当然と言わないまでも)楽観的であるのが日本国憲法であると理解するほうが素直である(憲法第63条を意図している、という解釈はもちろん成立するが、それは可能性であって、実際上は、解釈権の正当な行使があり、また制度として定着している以上、内閣総理大臣の個人的な選好の問題に過ぎない)。ただその場合でも、将来において、国会でその制限が審議されることは、妨げられない。
憲法裁判所についてもそうであるが、むしろ、強すぎる国会をどうするか、エリート主義を制度上担保するか(例えば、アメリカの裁判官のように。)が実は問題である※。
※そういった意味では、内閣法制局は(あくまでー理性的なー国会審議に資する)絶妙な立ち位置を維持していたのであるが(もとより近代的行政制度の公務員として当然であるとも言える。)、むしろ(大衆民主主義を企図する)憲法の意志に沿った安倍内閣によって、その「エリートの独善性※」は後退させられた。
※単に(見解の)「独善」が問題にされたのではなく、『部下である』というロジックに依って、制度上の問題とされた。なお、フランスなどの類似の制度との比較もとに、内閣法制局の果たしてきた機能について論じた研究報告が、やはり国立国会図書館の研究員からなされている。