関係前提の指摘型批判から、関係構築の為の説話型批判へ

批判とは、前提をずらして、帰結を対比する思弁方法である。
ならば、

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前提とされる関係に錯誤或いは感情付与の失当(「理性的に考える」のも、ウェイト0の感情を付与=それゆえの感情の惹起を見た目のうえで0に強制することであるので)見られる。
その場合、(以前ならば、外部に置かれた)前提に適切な感情を付与する前関係構築を(内部に倒置することを)行わなければならない。
こういったことはますます重要で、同調圧力を前提としない社会においては(それ以外では、目的とそれに適した方法と云った、事前のルールの明示化に同感することが挙げられるーそれこそが、多様主義なのであるが。つまり、多様な社会と云うのは、互いの暗黙の文化的前提を等閑に付するがゆえに代わりに必要な手はずを整える、ということである)。
我々はそのことに気付かななければならないのかもしれない、我々の鈍感さに。
幾何的広がりを持って価値平等に配置されたポイントを目的に沿ってそれだけをピックアップするのではなく、前提を直接織り込むか、前提の目指す効果を結果として得られるように、或る意味冗長に、或る方向に向けて一列に並べて、式展開する必要がある、と☟では言っている。言葉って、説明するために在るだけではなく、説明を考えさせるために置くこともできる。(感情の)取引であるがゆえに、主体性が現前しなければならない。(自然と)在るのではなく、(主体によって)置かれることを。そして、認識は、方向を持つことを。
すなわち、前提が共有されているという前提を遂行的に共有してゆくこと。

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でもこれ(ポストの方)だと、男の愚痴って、説明できるのだろうか?