なるほど、え?となる問題。

なぜなら、言葉には揺らぎがある。

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  1.  私は、予約ができる
  2. 予約は、私ができる

また、

  1. 私は、予約をする
  2. 私が、予約をする

 

「ガ格」の理解は錯綜していて、そもそも「主語」の理解が必ずしも一致していない。

いわゆる“対象のガ格”の正体を求めて 認知文法の観点から *

認知文法には期待するところがある。
👆では「がでマークされる」特徴を持つのが主語としている研究者もいる一方で、
👇では「主体」と言っている。

【格とは?】格助詞の種類【日本語教育】 | 日本語教師のはま

そもそも〈が〉は〈は〉に比べて遅かったのではなかったか。
そうすると、おかしな話で、またぞろ「主語がなかった」話になる。今ではチョムスキーもそれほど厳密には信じられていないらしいが(そもそも、純粋演繹的な、チョムスキー・モデルであったのではなかったか。科学的には、どこかで修正ないし、破綻するのが当然に予定されていただろう。いかにもユダヤ人の考えそうなことであって、言語学ではあるが、ユダヤ哲学の系譜に連なってても驚かない。むしろ今は、ソシュールもそうであったが、法学と言語学が距離を取り過ぎである)。

標準的な言語観がラテン語を理想としているなら、それはあまりに素朴実在的な受け取り方だろうと思う。「ローマ法」が理想ではないのだ。