「和魂洋才」の「魂」は仏性的自由であり、「才」は神の授ける自由である ㊱

 

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『確率論と私』を読み切りたいが、そこでとりあげられている色即是空について気になった。

www.chikumashobo.co.jp岡潔の「情緒」は有名だが、仏教にも親しんでいる。岡潔の場合は直観主義への態度表明のようなことである。つまり、数学に関するというよりも、数学者(自分自身)に関することで、ネーターの抽象化(ラッセルならば論理主義すなわち心理主義実証主義を憎悪する論理主義的実証主義のこと)に抗う心理主義である。
そういう時代の人だったということで理解できるが、伊藤清はどうだろか。
むしろ、「空」とはいっているが「シーニャ」の持つ多義性というか重義性ではないかと思う(「量」を「欠く」と謂うときに在る、量概念〈ある/なし〉と示向性順序概念〈なる/ならない〉)。それが「色」なのであるから、標識の問題である。だから論理主義から考えていると思う。

2つの文章を取り上げてみたい。

死はすべての人に例外なく訪れる事柄であるが、経験して実証することのできない事柄でもあるため、死についての思索は、死後の世界を幻想する神秘主義に陥るか、さもなくば「死んでからのことは、死んでみないとわからない」という実証主義に陥って思考停止するかの何れかとなる。

逝去 | 生活の中の仏教用語 | 読むページ | 大谷大学

意外に思ったのは、仏教が実証的な体系だと思っていたからだ。
定義・公理・定理・命題・補題・系を完全理解しよう | 数学の景色

この縁起の事実への目覚めにおいて、神秘主義実証主義も超えた逝去という死後の在り方が、浄土として明らかになる。

同上

実証主義 - Wikipedia
すなわち、ここでいう「実証性」は存在に関することで在り、実在に関することではない。

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もともと仏教は、生きる人間の哲学だったということである(だから実証的である。別の説明体系である中国哲学では、抽象的ではあるが、そこで得られる類比の考えを当て嵌めるだけで、秩序を説明できても、実証的とは言えない。体系の始原となる或る存在乃至実在を措定して実証であると思う。すなわち、人間に関する体系であるがゆえに、実証的である。また、釈迦は多くの数を考えたが、数に関して、実証的である。このとき、「死後の世界」の存在の確からしさは(上でとり挙げた「実証性」)、仏教の(本来の)実証性とあまり関係がないと思う。いわば「蛇尾」である)。
詳しくは知らないが、そのとき、超自然的な概念の操作を以て実証したとして、それが「事実」として独り歩きした面もあるのではないだろうか。


さて、もうひとつの文章である。

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現代社会において、自己肯定感の低さや自信のなさに悩む人、あるいは本来の意味ではない自信を持つ(つまり優越感に浸るなど)人が多いのは、相対主義的社会(二元論的世界)(善悪、優劣、正誤といった秩序の上に成り立っている)(つまり人間社会そのもの)で生きていくために必要な心の働きである「信じる」ことの方法を忘れてきてしまっているからなのではないだろうか。その背景には、言うまでもなく、科学の発展に伴う宗教・神話の排斥がある。

これは、こう帰結する。

(ある特定の)信仰を持つ(あるいは持たない)と決めることは、生き方を選択し、決めるということ。 ゆえに、宗教はその人自身の意思によって選ばれるべきである。(=信教の自由) その人の人生をどう生きるかは、本人の自由であるべきだから。なぜなら、他の誰のものでもない、その人の人生(=所有物)だから。

すなわち、まずは「宗教」というよりも、デカルト的な近代的個人(主体)のことで、『われ思う。ゆえに、われ在り』とは併記される述語の相同性を意味する、「中間項」であって、要は、〈主体〉の入れ物の中に、「こころ」も「からだ」もありますよ、ということである。当たり前のようでいて、当たり前ではない。なぜなら、自然科学が「こころ」を認めることはそれなりに難しいからだ(「こころ」も「からだ」の一部)。
※「相同」は「相似」と対比される生物学上の概念であり、「人の手」と「蝙蝠の翼」は「相同」であり、「蝙蝠の翼」と「昆虫の翅」は「相似」である、というらしい。
「われ思う」と「われ在り」が「われ〈が〉思う」「われ〈が〉在り」ならば「われ〈の〉思う」「われ〈の〉在り」に近づき、「人(動物)の手」「蝙蝠(動物)の翼」が「個人(われ)の思う」「個人(われ)の在り」とともに「相同」であるという、「われ」の実在に関する主張である。ふつうはそれを「主体」と呼ぶだろう。
ではなぜに「ゆえに」かというと、言語学的には詳細な分析がなされ、厳密に考えられたものではないとされており、おそらくこれは公理を導く指示語である(所謂、相互前提供与。c.f.オイラーの、相互羈束に係る、第三の関数概念)。つまり、因果関係のような前後関係の否定であり、所与の関係の宣言文である。
ルターがドイツ語を作ったように、デカルトもフランス語を作ったのだから、語彙が不足していたのだろうか。「グルー green/blue 」の例に倣うならば、「緑 ゆえに 青 あり」に近いだろうか。

我思う、ゆえに我あり - Wikipedia
デカルトはフランス語がへただった! - 虹猫の哲学堂

第4部でデカルトは、少しでも疑問を差し挟む余地あるものは疑い、感覚・論証・精神に入りこんでいた全てを真実でないと仮定しても、一切を虚偽と考えようとする「私」はどうしても何者かでなければならないことに気づく。フランス語で書かれた『方法序説』の「Je pense, donc je suis」私は考えるので私はあるを、デカルトと親交のあったメルセンヌラテン語訳し「Cogito ergo sum」「我思う、ゆえに我あり」コギト・エルゴ・スムとした。この命題は、我々が明瞭かつ判然と了解するものはすべて真実であることを一般規則として導く。その規則からデカルトは、さらに神の存在と本性・霊魂について演繹している。

方法序説 - Wikipedia

(仏)donc=(英)so

#693. ''as'', ''so'', ''also''

フランス語で 思う/と思う 。いつもJe penseでいいと思う?

After two or three years of introspection, however, I suddenly realised that, as it is the only method of obtaining a great deal of important knowledge, it ought not to be condemned as morbid.

[けれども,内省を2,3年行った後,突然,内省は非常に多くの重要な知識を獲得する唯一の方法であるので,病的だとして非難されるべきものではないということを悟った(理解した)。]  

出典:ラッセル『自伝』第1巻 第2章青年期

バートランド・ラッセル 英単語 find realize recognaize 違い

気づくの英語「notice」「realize」「recognize」の違いと使い分けを解説! | ENGLISH TIMES

感覚的には、このrealizeに近いと思う。
デカルトによる神の存在証明を考えると、

  1. 神は完全である(定義)
  2. もし神が完全であれば、神は存在する
  3. ゆえに、神は存在する

ゲーデルの哲学』(PP210-211,高橋昌一郎
ここでは、存在を性質として捉えているらしい。(実を言うと、自分には、循環論法にしか見えないが。つまり、1は、もし神が存在するならな、神は完全である、ところ、定義で意義を吸収しているように見える。しかし、重要なのは、デカルトはそのような意味で「存在」を使っていないことである)妥当な論証であり、1と2が真であれば、帰結の3も真である(モダス・ポネンス:P,P→Q|Q)。
※実を言うと、自分の疑問はカント的であって、カントはデカルトのそのような「存在」定義を批判した。反対に謂うと、デカルトの「存在(性質)」は、経験的ではない、ということである

さて、コギトに戻る。
今までは当然のように、心身二元論を展開してきたが、デカルトにおいては(カントが考える意味での)経験的な意味はない。名辞だけがある。だから合理論である。
デカルトは論証上の名辞として、〈われ〉〈存在〉〈思う(より正確には、考えを整理する)〉を或る関係に置いたということである。神における「完全」が、人間における「思う(考えを整理する)」に相当することが見て取れる
つまり、これらはセットだと考えると見通しが良くなり(どちらかが存在しなければ他方存在しないわけではない)、反対に、神の「存在」性質は「(考えるまでもなく)完全」なのである。
人間は(神と異なるので)わざわざ考えなければならないが、良い方法がちゃんと「在る」ということである。それが「理性」であるという主張である。
そして、それが「定義(この場合、これ以上遡らないので、公理)」なのである。
すなわち、理性の擁護である。
これを「私」(という、経験的存在)に引き付けて考えると、途端にドツボにはまる。
あくまでデカルトが考えた(神の存在証明と同じ)論証乃至定義である。
日本語で言うからややこしくなるが、丸山眞男がこれに形式上「近い」ことを言った。
要は、
なかなか人間は経験から離れられないので、この世に「数学」が生まれた。すなわち、コギトを曲線から考えることも可能である。

 われ〈の〉思う So われ〈の〉あり
 曲線〈の〉点  So 曲線〈の〉接線(あり)

これで、〈の〉の意義が明らかになった。ルターの発見した〈の〉は何だったか。
すでに「在る」」という恩寵(たるイエス)のことだった。
デカルトはそれを命題論理上の表現として使った。 
このとき、So を挟んで左右の言辞は、相同性の認められる二表徴である。
要は、言葉として2つに分かれて独立しておらんと、なんとも説明に困るということであって、それが「二元」ということである。

ガッサンディは三段論法の「科学性」をあまり考えなかったようで、デカルト

ピエール・ガッサンディ - Wikipedia

唯物論と言っているが、要は、人文学者(デカルト)と神学者ガッサンディ)の争いで、デカルトの粒子論とは「中間体仮説」とでも呼ぶようなエーテルに近づく話だが、「エーテル」と呼ぶべき単一の物質が存在するのではなく、ホーリスティックな(何にでもなる)物質が状況(宇宙の回転)に応じて能く或る「物質」(現在言う「物質」とは意味合いが異なる。)に成るという主張である。
デカルトを考える時、この一貫性=数学における接線、科学における粒子、哲学における「われ」(コギト)=は重要だろう。彼は機械論者であるかもしれないが、それ以前に、ソクラテシャンである。

粒子論から原子論へ

つまり、アリストテレシャンであるかどうかについては、彼の「アリストテレス理解」はそのようなものであったとしか言いようがないのではなかろうか。
ここでは反射的に、ガッサンディの哲学がそうではないことが、浮かび上がるのみである。彼の神学では、神の真理は明晰であって、そのような曖昧さを許さなかったのだろうと推察する。
つまり、「唯物論」という語彙が、そもそもよろしくない。或いは素朴実在論者かもしれないが、それについては手持ちの証拠を欠くので、とりあえず、「明晰論者」とでも言えばどうだろうかと思う。

エピクロス - Wikipediaルクレティウス - Wikipediaフランソワ1世 (フランス王) - Wikipedia

そうなると、媒介を持たない直観主義を採るのが、スコラ哲学であるが、

ルターとツヴィングリの思想の違いは、思想的には恩寵や聖餐の解釈の問題であった。ルターと違い、ツヴィングリは人間の協働の重要性を強調している。つまり神の選びのみがすべてであると考えたルターと異なり、ツヴィングリは恩寵もさることながら、人間の態度も神の選びに影響を及ぼすと考えたのである。もう一つ重要な差異としてツヴィングリは聖体を単なる象徴と考えていたことがあげられる。この点において共在説を唱えたルターとの差が決定的なものとなった。

フルドリッヒ・ツヴィングリ - Wikipedia

これを物に転嫁して語るならば、「唯物」であるかどうかよりも「共在」であるかどうかである。それがガッサンディが後年人文学にどの程度接近したかを表すかもしれない。


これを宗教にむずびつけたのが、大正オカルティズム(生命主義)であり、「宗教の復権」のスローガンは、当時を彷彿とさせる。今は「生命」を「自信」というが、要は「こころ」のことである。☞生命 - Wikipedia

第21条関係 留置権の優先|国税庁
https://www.teikyo-jc.ac.jp/app/wp-content/uploads/2018/08/journal1966_1-20.pdf

自然の斉一性 - Wikipedia

http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/8008/1/67-1-kyoiku-08.pdf