仏蘭西じゃなく。
デカルトとハイデガーの違いなんて、要はフランス人とドイツ人くらいのちがいでしかなく、(スコラ派の)自由意志と寛容くらいのちがいで、ただ、ハイデガーにはドイツ神秘主義の影響があるだけだろうと思う。デカルトは機械的目的論に則って、器を「人類」から「ヒト(個人)」に差し替えその機序を理性と呼んだから、近代的個人の嚆矢となったのであるが、彼も理性も目的を与える神を否定してはいない。
さて、オザケンの歌詞をタモリさんが褒めたとかで、その幾小節をハイデガーの「開示」がどうたらと感嘆符を宛(あて)がうのであるが、ハイデガーもその影響を遡ればヘルダーリンやトラークルの詩があり、彼らの間にはランボーが居て、ランボーもやはり「海」と「永遠」を継時的※に表現しているのである。
むしろ、寺山修司の有名な短歌や銀色夏生の『そして僕は、途方に暮れる』と比べたほうが面白い。「暮れる」には同じことを繰り返して時が過ぎるという意味もあり、実際に歌詞はループになっている。
君の歌うクロッカスの歌も新しき家具のひとつに数えんとする/寺山修司訳,句切れ,解説, - 短歌のこと
そして僕は途方に暮れる(youtube 歌詞) - Google 検索
※認知特性の説明から言うと、継時的理解の対置語は同時的理解で、それぞれ統合的知性と分析的知性を表現する。大雑把には、認知上優位となる感覚器の区別から、視覚優位者と聴覚優位者と云われるが、もう少し分別すると、視覚優位者(カメラアイタイプ/三次元映像タイプ)/言語優位者(言語映像タイプ/言語抽象タイプ)/聴覚優位者(聴覚言語タイプ/聴覚&音タイプ)になるらしい。なお、タイプ名を私が要約すると、視覚優位者(カメラアイタイプ/ビデオアイタイプ)/言語優位者(映像化タイプ/図式化タイプ)/聴覚優位者(信号タイプ/音像タイプ)といったところ。
ここで謂いたかったことのひとつが、宗教の文学的影響である。
若い方はご存じないでしょうが、例えば蓮實重彦の『表層批評宣言』の冒頭は、このように始まります。2頁にわたり「。」がなんとひとつ──。
— 北村匡平|Kyohhei Kitamura (@Kyohhei99) 23 januari 2020
こういう個性をなくして行きましょうというのがアカデミック・ライティング/パラグラフ・ライティングです。 pic.twitter.com/6LEiHAolGW
☟思想(認識)の影響だけではなく、表現の影響はどうか
漢文(漢詩)の和訳と比べると蓮池の表現は無駄に得意気なだけで突飛ではない。
これは漢文がそうだからなのか、仏教がそういうことなのか、私にはよくわからない。
そうなると、「概念」/「措辞」であるとか、逆ポーランド記法の話を思い出す。
逆ポーランド記法 - Wikipedia
なお、釈迦は「無量大数」を考えたが「無限」を計算可能性(計算時間の機会的損益)から放棄して、1000年後にバースカラ2世は、記号操作(計算自体)から「無限」を考えた。
「国語」がいまだに「文芸(表現)」と「論理(表現)」に分けられないのは。。。
あと1000年は必要だと言うのだろうか?
むしろ、「国語」と「英語」の誕生の経緯から言って、その隣接分野であった法学の、実証主義から考えたほうがわかりやすいと思う。即ち、英米系と大陸系は違う、ということである。
ヒュームを引き継ぐ英米系の法実証主義は、法の存在条件を社会的事実に求め、価値の問題を「あるべき法」を探求する正義論へとさし回して留保するが、カントを引き継ぐ大陸系の法実証主義は、ケルゼンに見るように法の内的体系性において法の「(事実とは切り離されるべき)規範性」を強調する。英米・大陸の両者の間で、方法二元論が全く異なる形態をとっていることに、注意が必要であろう。