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— 小谷野敦とちおとめのババ・バロネッタ (@tonton1965) March 24, 2022
音楽には物語がある(38)ただの歌詞じゃねえか(1)「中央公論」二月号 - jun-jun1965の日記https://t.co/ZLOJZOyXxS
文章に混乱がなく見事で、面白かった。
こういう文章は好きだ。
松岡正剛は芥川龍之介に興味があるのではなく、「多読を誇る自己」に興味があると思う。
就中『重大に扱ふのは莫迦莫迦しい。』は、芥川の発案、発想というよりも、心理学が社会を席巻していたころの話で、当時の、大衆向け「低俗心理本」(私が見下しているのではなく、当時の言い方では、どうも「(自己)啓発本」らしい)での、 である。
夏目漱石はホワイトヘッドになり損ねたと思っていて、西田幾多郎はフレーゲもフッサールもよくわからない教養しか持ち合わせていなかったと思っているが、芥川龍之介はどうだったろう。
横光利一などは、不良だからこそ、如才なく生き延びたと思っていて、出し抜かれた藤澤清造は自殺してしまった。
松岡正剛はそんなことどうでもよくて、だから、アフォリズムと簡単に言ってしまう。
確かにアフォリズムである。
ただ、芥川龍之介は心理主義(乃至心理主義的論理学)と論理主義(乃至実証的論理学)にあって、概念に拘ったのだろうと思う。
芥川龍之介の『稜線』とは、概念の内容が形成するグラデーションのことだろうと思う。それが所謂「境界問題」を構成することを好んでいったのではないかと思う。彼にとって概念は、媒介によって分岐する内容を保持して、帰納的な事実(の総体)であるようだ。事実には具体性が伴う。
こうかんがえると、芥川龍之介の思想上のライバルは、意外にも、ヴィトゲンシュタインだろうか。
芥川 龍之介 1892年(明治25年)03月01日 - 1927年(昭和02年)07月24日
ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ヴィトゲンシュタイン
1889年(明治22年)04月26日 - 1951年(昭和26年)04月29日
なんだ、ヴィトゲンシュタインと石原莞爾と藤沢清造は、同じ年に生まれたのか。
現実の世界はひとつひとつの事実の集合である。一方で言語は科学的な文の集まりである。これらが1つの事実と1つの言語は鏡のように1対1の対応関係が成り立っている。これを写像理論という。
ここで、回答者は、
ようするに哲学の概念で、数学化されるものではないです(安直に論理学の意味論などとも混同すべきではないでしょう)。
と解説するが、これが、芥川龍之介の問題意識であるように思う。
すなわち、哲学と(ここで言及されている)『論理学』を分けるものは何か、ということである。
そして、ヴィトゲンシュタインにしろ、芥川龍之介にしろ、『論理学』的には考えなかったということである。
ホワイトヘッドとヴィトゲンシュタイン、或いは、パースとヴィトゲンシュタインの類似性の指摘に頷くかどうかであり(そこに、元良勇次郎に薦められて夏目漱石が傾倒した、ウィリアム・ジェームスも関わってくる。)、芥川龍之介の『稜線』の傑作が『羅生門』であり、雨のアスペクトとともに、ろうそくの炎のモンタージュが、芸術性を高めている。
現在進行形とは、動作の終了を観念的にも想定するのが特徴で、その意味で技巧的で『飛んでいる矢は止まっている』のは、flyingは、「最早」を含意している。
「飛ぶ」と謂う概念が、当然にその(一連の)動作の終了を予告して、それに向かっているさまを観念上表しているとき、「飛んでいる」というアスペクトの表現を持つ。
ルターが日常のドイツ語を作らなければならなかったように、デカルトは日常のフランス語を作らなければならなかった。最初のフランス語で書かれた哲学とはそういうことである。ルターは、オッカムの始めた論理的示唆と論理包含の分別をキリストと聖書の具体性を根拠に推し進めたが、デカルトはソフィストの始めた言語的転回を物理的具体性で根拠づけようとした。言語を「記号的」に扱った嚆矢である。
芥川龍之介は、それは契機の構成問題だと考えたようだ。
芥川龍之介の『稜線』は、ing に具体的根拠を求めているのである。
しかし,数学から指向重視の応用方向へと離れるのはなく,逆に思考の極致としての哲学の方向へと離れてみれば,確率そのものは極めて深遠な思考の対象となっていることがわかる.そもそも確率とは何か?ラプラス以来,ポッパー,ホワイトヘッド,ブンゲなどの科学哲学者たちによって論じられた大問題には違いない.
確率の解釈には2派あるのだが,それがそのまま思考重視派と試行重視派とに分かれてきた.当然ながらポッパー等の哲学者は思考重視派であり,確率とは事象が生じる傾向を軽量化した概念,即ち(先験的)傾向性確率に他ならないと見る.(はじめに ページⅤ)
芥川龍之介の(『稜線』を為す)『論理の核』とは、数学の「対象」ではないと謂うことである。つまり(グラフ上の)「点」ではない何かだ。それが「概念」だが、上の説明にも『概念』が出て来るから面倒だ。要は、「点」にならない、という性質のことである。
ただ、考え方は近くて、1回限りの事実の傾向を、契機的に「論じる」ということであり、それを政治学にしたのがソクラテスなら、それを文学にしたのが芥川龍之介なのだが、
『羅生門』を文芸国語で扱うことは、わかる。芸術作品の古典に触れる意義がある。
『羅生門』を論理国語で扱うことは、かなり疑問だ。
荒唐無稽だからではない。相当難しいからだ。
前段に求められる議論が多すぎる。
僕が、これを推す理由は、まさにその1点で、内容が易しいからだ。
高木貞治の自然数の理解は「馬鹿げて」いる。間違っているのではない。
あまり哲学的で、無駄に難解だからだ(私が言っているのではない。足立先生がおっしゃっているのだ。『デデキントフレーゲペアノを読む』)。
現在では、簡単に議論できるように、洗練されてしまっている。
高木貞治を読むのは、活発に議論されていた最中の当時の問題意識に触れるためだ。
難解なのは、当時の認識上の宿痾が何かを示している。それを知るための、読む意義がある。
初学者が何から始めた方が良いかはわからないが、難解なものを難解なもののまま読むのは、無謀である。少なくとも、ガイドが必用だろう。
それは、とどのつまりは、簡単にして読んでいるのであるから、簡単なものをまず読むことも、同じくらいには、推奨されてよい。
中国には🐎̪🦌のほかに🐎̪🐅も居たのか。
芥川龍之介よりは簡単だ。
🐎̪を「稜線」として🦌/🐅に分かれる。
白馬は馬に非ず、马鹿(馬鹿)は鹿なり
ブログ – 「馬鹿」という単語。中国語では「アカシカ」という意味 | 東洋精器工業株式会社
実は、马虎はいないが、虎马はいる。
「白馬非馬」も、なかなか奥が深い。
芥川龍之介の話はこういうことだろうと思う。
そうすると、
中島敦の言わんとすることもわかるし、『山月記』もそういう話であると想像できる。
馬虎の父親の哀切極まる唄は、確かに、上手くはない。
李徴の詩は上手いのか、下手なのか、よくわからない。
この曖昧さが主題である。つまり、「稜線」が問われている。
『山月記』では李徴の詩がクライマックスである。これを観賞しないわけにはゆかない。