markovproperty.hatenadiary.com
レオン・ワルラスの小説は、つまらないどころか、アメリカで大ヒットを飛ばしていた。。。どころか、「国民小説」として教科書の定番になっていた。。。。かもしれない(そうなったのは、『グレート・ギャッツビー』)。
ワルラスときたら、やはりゴッセンであって、『ゴッセンの第2法則』を知ったときの感動は、生涯の知的感動のうちで、5本の指に入る。
実は、ゴッセン自身は直線で表現したから、それはジェボンズの批判の通りで、『限界革命』は複数人で達成したと考えるべき。これは、2次関数、微積分、媒介変数の3つ揃うときのマジックであるから。
エッジワースのボックスダイアグラムとソクラテスの問答法の共通点は、〈主体〉をテキストの外に出して猶、評価配分について言及できているところで、それはこのマジックを経ないと達成できない類のことだったんだ。
すなわち、ラッセルに言わせると『直観的』でありすぎる。
こうすることよって、「主観」を適切に、つまり客観的に扱えるようになったんだ。
http://www2.toyo.ac.jp/~kawano/lec-semi/mat/mic7.pdf※
※実は、稠密問題は、隙間の最適化問題にひっくり返せるから、稠密問題も解ける(かもしれない)。これは余談。この本安くならないなぁ。
(直観的な)〈判断〉を分岐問題として十分(対象化することで)内部化することで、心的傾向が〈評価〉として比較可能になったんだ。2次関数(以上)でないと、技術的に分岐しない。
そういった意味では、ワルラスは、分岐問題を「素因数分解」の問題としてイデアルから研究した高木貞治とやはり同時代のヒトであった。
一方でアインシュタインは熱統計力学によって分子を同定する偉業を成し遂げ、前時代には不可能と思われていた帰納的な論理(科学的統計,科学的帰納法)を切り拓いた。。。らしい。
これらがそれほど異なるかと謂うと、統計は、存在への評価を1/0に分けたうえで、その「集まり具合」を見ているのであるから、前提となる考え方に共通することを含んでいるのであった。それは「対象化」された要素の「あつまり」と謂うことである。
こうして古典的な「自由意志」の問題は、「自由項(変数)」の問題となった。
制 度 | あつまり |
主 体 | 個・要素 |
心理主義 | 論理主義 | 数理主義 |
心 理 学 | 解 析 学 |
これは或る意味で「牽連性」と捉えることができ、そこへ何かしらの介入を求めるとき(「裸の合意」と「着衣」)、
英米約定論 → フロギストン的
大陸法カウサ理論 → エーテル的
「広義でのカウサ論全般」に関して「法における因果関係の理論は分析すべき法理論というよりは悪魔祓いされるべき一種の幽霊である」(引用者注:トニーオノレ Tonny Honoré 。L.A.ハートと共著)
なるほど、トミストの田中耕太郎が商法の色彩論(世界法理論;1932年・昭和7年)で謂った自然法とはこのことか。歴史的には民法(仏民法典など)、民事訴訟法で展開された「着衣論」の延長である。
明治期に穂積八束が嘆いた、法律専門学校の教授たちが制定を進める民法案に関する(自然法の)説明に対して「それは自然法ではない」と言ったときの自然法がここにある。「和魂洋才」とは「そもそも理解していない」ことに過ぎなかったのであった(いまだ近世的理解が自然だったのだ)。
手形上の法律関係が、証券に結合された金銭支払いを目的とする抽象的債権が転転流通する性質から、売買等の通常の契約関係と異なることや、その強行法規性、技術法的性質、世界統一的性質を基礎づけた
商的色彩とは? -商的色彩とは簡単に言うとどういうことなんでしょうか?- | OKWAVE
ここで説明されている『集団性』『個性の喪失』から、田中耕太郎の共産主義諸国を指してい言った「国際的ギャング」を考え合わせると意味深である。
「裸の」などの語彙は、ゴッセン『人間交易論』にも出て来るのであった。
ゴッセンによって、ルソーの哲学的全体主義は、ベンサムの科学的全体主義へと道を譲ったのであった(ゴッセンは特に土地と国家について主張した)。
機械的・機械的・媒介的なことが近代的個人の特徴であるならば、属性的な〈主体〉が、そのような機械的・機械的・媒介的〈個人〉にとって代わられたのである。
ここで、ワルラスの all the systems known lemesが複数形で、フィッツジェラルドの a single green lightが単数形であることには注意したい。
ワルラスは大陸法的(エーテル的)で、フィッツジェラルドは英米法的(フロギストン的)だ。また、ワルラスが(連立方程式による)幾何的であるなら、アインシュタインがエーテルを構造と捉えたことのアイデアの原初形態がここに在る。
これを作ったオランダ人とはスピノザを暗に指していると思う。ワルラスも言及したスピノザだ。
「壊れる」 F・スコット・フィッツジェラルド 著 - donadonaringのブログ
大野 真 (Makoto Ohno) - 『グレート・ギャツビー』論―謎と2重性 - 論文 - researchmap
大野 真 (Makoto Ohno) - 『グレート・ギャツビー』における「夢」の二重性 - 論文 - researchmap
つまり、この2作は共通点が見出せるのだが、それは研究の対象となってこなかった。
スピノザと言えば、オランダライデン大学の出身だが、光合成を発見したヤン・インゲスホウスは、光合成をフロギストンから説明したらしい。
12月8日 「光合成」の発見者インゲンホウス誕生(1730年)(ブルーバックス編集部) | ブルーバックス | 講談社
「研究されていない」ということでは、ゴーゴリと芥川龍之介に関しても以前から不満があった。『外套』は『芋粥』に影響を与えたと言われるが、それはそれとして、『藪の中』こそそうであろうと思ってる。
『藪の中』も「憑依物」のひとつであはなかろうか。ただ、この論考には2点の疑問があって、
- 紫式部が転換した「怨霊」から「生霊」について
- ローマ法のカウサ(着衣)理論について
が十分言及されていない。南山大学だけに残念に感じた。
民法をどうするかは、名実ともに「第二憲法」をどうするかという意味で大事だったのだが、それはそれとして、『根津権現裏』を考える際には、もうひとつの「珍事」、『藪の中』の新聞紙上での犯人捜しである(『藪の中』の読解の方向性を決めた、世俗的理解)。
世相 世の中のありさま。社会の様子。 相:すがた、かたち、ありさま → 外形 |
世情 世の中のありさま、様子。 情:内に込められた様子 → 内実 |
世事 世間とのお付き合い。:世辞 |
世情の方が、世相よりも、特に関心を持たなければ知ることができない。
参考:世相と世情の違いとは?意味や読み方、使い方の例文を解説
とのことで、
福田は「真実はわからないものだ」というのが「藪の中」の主題であるという前提に立っているため、真相さがしはどうでもいいことかも知れないが、これは対象たる作品の虐殺ではないだろうか。 — 大岡昇平「芥川龍之介を弁護する―事実と小説の間―」『芥川龍之介』 河出書房新社〈文芸読本〉、1975年 p.95
彼らにとって『研究する』とは何だったのだろう?まったく意味不明である。
プロレタリア文学が云々ということはないが、一足飛びにそこへ行くのは、かなり異質な理解である。
日本にプロレタリア文学なるものが台頭したのは、大正10年から2年にかけてであった。(『読売新聞 八十年史』読売新聞社 1955年12月)
芥川自身は面白いことを言っていて、
下流階級の貧困ではなかった。が、体裁を繕ふ為により苦痛を受けなければならぬ中流階層階級の貧困だった
『大導寺伸輔の半生』1924(大正13)年12月
との自認識であったらしい。これが『根津権現裏』のころの世情である。
宮本賢治はこれを「プチブル」と批判したらしいが(「敗北の文学」文藝評論,六藝社,1937年・昭和12年2月)、
この言葉の持つ「権力性」である。キリスト教はどこへ行った。
自然法を誰も言っていない時点で、少なくとも、欧米的な受け取り方としての「共存」などされたことはない。
そのころの世情の話に戻すと、今でいう、スポーツのプロ化、サッカーにしろ、バスケットボールにせよ、ラグビーにせよ、そういった盛り上がりを各界隈で見せていたと考えたら、わかりやすいのではないだろうか。「五大法律学校」「師範学校八大主張」のイメージはおおむねそんなところで、それに付随するメディアもまたにぎわい、勃興した社会の をマーケットにしていた。
そこへ第一次世界大戦後の社会変革が顔を見せていたのであった。
芥川の言っていることは一種の「相対的貧困」であるが、都市における新しい階級のことだったのではなかろうか。芥川龍之介などはそれでもセレブであるが、渡辺政盛や藤澤清造もそこに属していたと思う。渡辺政盛はそこそこ成功し、藤澤清造は孤独に沈んだ。石川啄木の貧困はどの「貧困」だっただろう。
まだ途中だが、飯を食わねばならない。
面白そう。
- 「仲人」ではなく「媒酌」ではないか
との意見も。自分は『大正期以降に登場する恋愛などとのせめぎ合い』に関して、一方での、
- 「家(乃至家族)から世帯へ」、すなわち、「戸籍から国税調査へ」
と言った視点もあったら、よかったと思った。