これ、井川さんが、至極率直な物言いをしているから、面白いよね。

井川さんって、東大法学部出身だからさ、「法学的」に自然と考えているよね。
それが述語に象徴される。

池田さんはメカニズムを言っているんでしょ。
だから、方程式論或いは、関数論で「変数に関して解く」とやっているわけだ。

井川さんは、主体の意思決定に依存している。
それって、「共助、互助、自助」に落とし込まれるんじゃないかね。

井川さんは金持ちだから、アナーキーではないけれど、「自助」寄りなのかね。
要は、老人福祉の担い手を国から世帯に移すことになると思うけれど、でも、政治自体が、意思決定で、老人福祉は減らせないジレンマを抱えることになる。

ここには、(一方で、「大家族」に近接して)実は、戦後一貫して(或いは戦前から)流れる、「老人の自立」問題があるんだ。

これが端的に現れたのが、マイナカードの混乱だったんだ。
あれは老人がデジタル社会に支援なくして適応できるかからデジタル支援を通じて事実上の「世帯合併」を促すことができるかが、裏で、問われていたんだ。

要は、「わからなければ、子どもの世話に成れよ」って話。
そして、「デジタルを通じると、物理的制約からある程度解放されて、世話をしやすくなるよ」って話。
でも実際に混乱したのは、「行政の現場」だったというね。
いや、「自立するなよ」だったらよかった?
そもそも「老人」と「高齢者」は語彙上区別されるかという問題意識は、ある。
すなわち、「老人」とは、「老人会」の「老人」で、自立を前提とした主体の単位だ※。
※もちろん、老化現象に必然のこととして、精神的能力、身体的能力が衰えるので、「自ら意欲を失わないようにしましょう」に収れんするのだが。
これは戦前の国家総動員の中で形成されてきた考え方で(辞書的な言葉自体はもちろんそれ以前からある。)、戦後は、社会を担う「公民」の一人に位置付けられた。
「高齢者」とは戦後の福祉行政の言葉で、(科学的)福祉の対象を指す。「点」のことだ。せいぜい「客体」として「配慮が求められる」くらいである(「主体」「対象」「客体」はそれぞれに違う)。

これは法学的に解くのはそれなりに難しくて、平等原則に条件を付すこととなる。
いや、実は、「平等原則」はすでに制限されている。
「未成年」だ。
だから、今後は、高齢者を「離成年」と認識できるかが問われる・。
いや、「成年後見制度」で高齢者は(すべからく?)「被補助人」扱いだから、その端緒は開かれている。

そういう遠大な「人類計画」が隠されている(冗談)。

少なくとも、「共産主義」であるべきか、「交易主義」であるべきかは、ゴッセンは、「エーテル」(顕在的な媒介によるメカニズム)か、「力」(潜在的な傾向による自動調整メカニズム)かで問題化していたね。

共産主義」が「宗教的」であることをことほど明瞭に指摘した者が居ただろうか。
これは正しい。
事実上、ゴッセンは、共産主義とはエピクテトス学派(神学)だと喝破したのだ。

すなわち、「国家論」とは、機械論を介した「意志論」だったんだね。
意志だってエーテルなんだよ(エーテルだから—「悪」なのかと問題化されるとき、「エーテルだから」は隠されている。これに対置されるのが、例えば、啓示とかね)。
これがわかるかどうかだろうと思う。
それは存在論以前の実在論の時代のことだ。

だから、一つの解釈として、共産主義でなぜ国家が滅亡するかと言うと、「悪いエーテル」から解放されて「善いエーテル」でつながるからだよね、たぶんね。
実は媒介問題だよ。
だから、ソ連が現出したんじゃないかね。結局、何を顕在させるんだってね、わかりやすい例では、裁判は要るでしょ、って。リンチで済ますか、裁判という制度を設けるか。後者だと、「いや、それが国家だろ」というね。