「和魂洋才」の「魂」は仏性的自由であり、「才」は神の授ける自由である ㉞

 

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とにかくコルモゴルフの紹介がまず素晴らしい。
伊藤清先生はコルモゴルフの影響もあって、(ブラウワーの)直観主義に親和的なのかもしれない。
オイラーには(もちろん最大限評価するが)遠慮しない。これがイイ(あんまり、聞かない)。

コルモゴルフの資料としても手元に置いておきたくなる。
巻末に、伊藤先生の、〈付録〉確立微分方程式-生い立ちと展開ーが付いている。

理論的なこと以上に、歴史的経緯の資料として読みたい。
どちらも図書館にある。
『確率の出現』(イアン・ハッキング慶應義塾大学出版会)はかなりよくて、さすが「論理の国」イギリスらしく、失礼しました。カナダの方で、ブリティッシュ・コロンビア大学からケンブリッジに進んで、今はトロント大学で研究されているらしい。
「証言」と「証拠」という切り口が秀逸で、類例をみない。
ライプニッツからベルヌーイへの変遷が山場で、法律家と数学者(数理科学者)の結合によって、近代的確率概念が整備されたわけだけれど、その後の、ラプラスからコルモゴルフへ至る、公理化された現代的な確率論でもう1冊望みたい。

diamond.jp

進歩がすさまじい「機械翻訳」、その理由をトップ技術者に聞く

上はNEWSPICKSの記事だけれど、どうしても技術的な関心が中心になる。その分野のヒトはもちろんそれでよいのだけれど、取材をした記者が、事前に『確率の出現』を読んでいて、ライプニッツの法律家としての本義を知ると、単に、「機械学習」「確率統計」の理解にとどまらず、それが「言語学習」であることに「オー!」ってなること請け合い。ここで文系を代表して弁護士のPROが、

 いや、ライプニッツは、法律家ですけどなにか?

ってドヤ顔をすると、記事が滋味深くなる。

この何が凄いって、全部、戦前の話。
コルモゴロフが大車輪の活躍を見せたのは、1930年代。1930年=昭和5年
そもそもが文学への興味から始まっているから、こちらの方がお誂え向きかも。

jamijami-tv
★★★★★読ませる統計学・確率論史
2005年12月27日に日本でレビュー済み

病気、自殺、兵士の胸囲の平均、犯罪などに関する統計がいつどのようにして生まれ、またそれが何を意味するか。印刷を通じて社会が統計化し、決定論が浸食され、さらに偶然が飼いならされていくプロセスを追った、素晴らしい著作。

Q=どうしてですか。

A=それはね、「偶然」(chance)を統計的な法則のなかで見るという態度こそが、その後の社会で人間社会を「平均的に見る」とか「正常と異常で見る」といった見方をつくったからだね。

Q=そうなんですか。それっていつごろの話ですか。

A=これはっきりしている。ナポレオンが登場してからのことだね。

1334夜 『偶然を飼いならす』 イアン・ハッキング − 松岡正剛の千夜千冊

オーギュスト・コント

トマス・アクィナスは人為的法(lex humana)と実定法(lex posita or ius positivum)を混同していた[3][4][5]。しかし両者の間には微妙な違いが存在する。人為的な法が法をその起源(すなわち、それを提起したのが誰であるか)の立場から見るのに対し、実定法は法をその正統性の立場から見る。実定法は、それを作った者の意志による法であり、したがって、人為的な実定法が存在するのと同様に、神による実定法も存在しうるのである。実定法論は、それを制定した権力者に由来する。この種の法は、被治者である個人の権利を保護し、民事紛争を解決し、最後に社会の秩序と安全を維持するために、国家によって人為的に制定され、必要なものである。(より直訳すれば、lex positaは正法ではなく措定である)[3]。トマス自身は『異邦人への手紙』で「Si autem lex sit divinitus posita, auctoritate divina dispensatio fieri potest(もし法が神的に与えられたならば、神の権威によって解脱が与えられる)」[6]、「Lex autem a Deo posita est(しかし法は神によって定められた)」と言って、神の正法について書いている。 7] マルティン・ルターもフアン・デ・トルケマーダと同様に神的正法の考えを認めている[8]。 www.DeepL.com/Translator(無料版)で翻訳しました。

Positive law - Wikipedia

アマゾンで「試し読み」をしようと少し覗いて、所謂「御真影」に関する事件への感想文を読んでいたのだが、怨嗟を苦痛に感じて耐えきれなくなって閉じた。
こういった事実は学術的に調査されてよい。ただしそれは「科学的」にである。

なるほど、どうりで、「所謂『STAP(スタップ)細胞』偽造事件」に関連して(元)被疑者の発言を揶揄って『ありまーす』と軽挙して或いは何かしらの偽計に満ちて、つまり、エスメトロジーの作法で取り上げたのは、どうであれ人格を損ねる暴言で非難され得る、、だろう。
ただ、これが「オカルティズム」の領域であるとき、それに対する社会的抑止の作法としてもまた「在る」のである。
すなわち、(まさに「証言」と「証拠」を巡る争いであるが)それは偽証なのであるから。社会は法廷のみで正義を図るのではない。それ(係る正義の行使)自体十分抑制されなければならないが、社会自体が正義を保持する。
つまり、素朴な事実のみに頼る短絡こそが禁物なのである。十分方法的に慎重でなければならない。そのとき、科学に委ねるべきことは、科学に委ねなければならない。
このときわれわれは良くも悪くも何層も積み重なったレイヤーの中で生きて居る。
結局は、態度の問題である。

要は、『実証』『歴史学』『人格』と文中にあったので、それは「証言」「物語」「判断」のことではないかと思った次第である。
まさに文学的である。
ただ、これは、もうひとつの、「スーパーカーブーム」と『サーキットの狼』の間に在る世代的な熱狂だろう。つまり、個々人が代表して雄弁するさまであり、客観的な調査ではない(60年代生まれまではそれが通用したらしいが、如何)。
いや若い世代はとっくに変わっているのかもしれない。
もう彼らに任せていいのだ。


そうか。だから、古典は古典なのか。
とり上げ方がポジティブ(規範的ということではなく、肯定的)である。