心理学的論理学

 

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実にややこしい議論をしていたのであって、それについては、フレーゲの偉業が輝かしい。要は、何度も言うが、いまとなっては単純な話で、評価のシステム(セット)である。解説的に言えば、所与の評価がどのように推移するかの機序である。
だから、ラッセルのような自己言及も可能となる。あれも別に大した話ではないが、論理学の成立の経緯から特別視されうるのであった(つまり、心理主義=「人」中心に考えてきたところ、それが誤りだと気づいたから。評価が中心なのであったが、それは特殊なキリスト教圏の特別な意識の賜物に過ぎないが、実際、論理がキリスト教倫理から生まれたのだから、仕方がない)。非キリスト教圏の日本人からしてみれば、「なんだ、その程度の話か」で済んでしまう(反対に、近代化にひどく悩むこととなった。近代化=ポスト・キリスト教社会化=自然法受容だからである。いまだに近世思想の方が身近で人気がある)。

 

さて、「論理国語」で取り上げられたと評判の芥川龍之介である。
旧制高校生の謳ったデカンショデカルト・カント・ショウペンハウアー)ではないが、それを「論理」と言ってしまうと、フッサールの努力が水の泡である。

芥川龍之介は「心理学的論理学」であってそれは、「古典論理学」で苦しんだチャールズ・ドジソン(ルイス・キャロル)を補助線に引くとわかりやすい。そこで、主体は、開示される内部構造を持つ、ということができる。ドジソンはそれをベン図で表した(彼はケンブリッジの新進気鋭の若手数学者として、宇宙の真理までを彼が独自に開発した「ベン図」で表現できると主張し、ベン図を発明したジョン・ベンを批判した)。

👇では、芥川龍之介が「主知主義」の作家として紹介されている(そう評したのは、小林英夫『言語と文体』昭和12,三省堂芥川龍之介の筆癖)

すなわち、主語と述語が明確に書かれていることらしい。
その例として『歯車』が挙げられている。
これは少しおかしい。
羅生門』と比べるとわかるが、『歯車』はコピュラに〈は〉しか使っていない。
羅生門』を見ると、芥川は、〈が〉と〈は〉を明確に使い分けていたことがうかがえる。主体化して考えるべき時には〈は〉を、対象化して考えるべき時には〈が〉を使っていたと言えるが、問題は、この程度の理解だと、なんでも主体化できてしまうことだ。それが『歯車』である。『歯車』は晩年の作品で、精神を病んで、この年に心中未遂を起こしている。

また同じ年に、谷崎潤一郎と論争をしている。

芥川龍之介 文芸的な、余りに文芸的な

詩的であるべしと言っている。
志賀直哉を称賛しているが、上掲では、志賀直哉の『城崎にて』を挙げて、芥川の『歯車』と比較している。要は、明らかに、文中の主語が少ない。

心的現象の移ろいを活写することを詩的と呼んだなら、それは心理学的である。

表現とは、心理学的に言えばいつも「仲介されたもの」を含んでいる。現象はそれ自体では何等表現ではない。それが、何等かを仲介して出て来たものと解されるとき、始めてそれは表現としての意味を獲得するのである。

波多野 完治. 文章心理学入門(新潮文庫) (p.242). 新潮社. Kindle 版.

その後、言葉の比喩として、帽子の被り方を挙げ

しかしこれがいく通り観察されたとしても、これはまだ決して表現とは言われない。このいろいろのかぶり方を、性格なり、心の状態に配当して、どんな性格や、どんな心的状態が、かくかくのかぶり方をさせるか、ということを考えださせると、ここに始めて「表現」の概念が生ずる。

波多野 完治. 文章心理学入門(新潮文庫) (p.242). 新潮社. Kindle 版.

評価システムと謂うとき、評価対象を評価基準を以て人をして評価せしめる時、それを評価準則と謂い、仲介要素で評価の推移を制限する構成を為すとき、その機序(全体)を評価システムと呼ぶが、特に、仲介要素としてコピュラを重視してきたところである。
「心理学的論理」では、評価即心理(内心に備わる機序)であり、あとはどうにも印象論でせいぜい、主語なり述語なり修飾語なり、文法の要素の数を比べる程度ではなはだ心もとないが、カントの「質量」をフッサールが批判したのを知ってか知らずか、波多野はメイエルソンを呼びだす。
メイエルソンはボーアのコペンハーゲン解釈を批判した、19世紀後半から20世紀前半の人で、(普遍論争で謂う)実在主義の立場を採ったひとであったらしい。
なるほど、その写実主義のことを言ったのかもしれないが、芥川は〈は〉の人であり、ドジソン的な「ベン図」では、無限退行を起こす。芥川が心身を病むわけである。

岡本かの子著『鶴は病みき』
👆梅毒説は否定されている。

文学にみる障害者像-芥川龍之介著『河童』

👆5歳で無限退行に脳がやられた経験があるので、それを推したいが、芥川は統合失調症ではなかったのだろうか(私がそうであったかは知らない)。自分は、中学卒業までは、深く考えることを自分に禁じた。同級生で中学で勉強に目覚めさせられてしまって高校進学後に病んだ者も居た。自分を知ることは大事である。大人になってからは自由に考えても大丈夫なので多少楽しくなったが、如何せん年齢には勝てない。
カントもヴィトゲンシュタインも病んだのであるし、なりやすいピークが19歳ころ、40歳ころと思しきであるが、それも断言で来るものではない。芥川はたまたま27歳頃だったのかもしれない。


侯爵夫人は5時に家を出た。

再帰のパターン化である。

真の自律性をコード化することは可能か?

オートポイエーシス - Wikipedia

「人間」を「自律」に置き換えただけで、「自然」の体系である。
それはそういうことであって、論理はそれとは異なる。
いかに、人間は人間を原基に据えることから逃れられないかの証左となっている。

要は、芥川もそれから逃れられなかったラッセル以前の人であって、芥川を「論理国語」の教科書に据えるのは、『アリス』を「論理国語」の教科書に据えるよりも、質が低い(芥川の作品がつまらないわけではない)。仕方がないのである。

むしろ、〈が〉から入り〈は〉へ移行してゆく移り変わりを見て取ったときの、芥川が何を評価したかったかを機序からの説明するーつまり、〈が〉と〈は〉の定義的相違の説明が当然に何を帰結するかを言うのであれば、文芸を「論理国語」の題材とする意義がある。なぜなら、論理が「評価システム」に過ぎないとき、なんでもその対象となり得るからである。法も、倫理も、歴史も、数学も、社会科学も、自然科学も、オペレーションも、批判も、もちろん文芸も、なんでも対象となる。いや、全部対象として、テキストを読むべきである。それこそ「論理国語」の教科書である。

そういうことを今日は考えていた。
科学リテラシーの涵養を目的とした、つまり、「コミュニティー」の一員乃至支援者もしくは理解者の増加を目論んだ、科学読本を企図しても、そりゃ「国語」としては面白くもなかろう。フッサールが指摘する通り「学」を欠いているのであるから。
それはただの政治である