「ドイツとは何か」を通じてみる日本とは何か

日本の戦前に展開された明治のデモクラシー、大正デモクラシー、昭和デモクラシーとファシズム体制を考える時

が示唆に富むと思うが、かなり注意が必要であるようだ。

私の主張は、大正デモクラシーが明治のデモクラシー批判から起こった、理念的にはドイツの固有主義と日本の固有主義と東アジアの固有主義への混乱的傾倒への西洋普遍主義と日本の土着主義の韜晦が、実践的には近代的な社会の整備と資本(産業資本/商業資本/金融資本)の充実が民主的な制度の拡充を伴って中央と地方の群衆化を生み、それが日本におけるファシズム体制を準備したというものであり、要は、大正デモクラシーは「明治」への忌避が「明治」の終わりを見計らって噴出したことであり、昭和の体制を否定しておらずむしろ準備したということである。
このとき「ドイツの固有主義」とは法学的な意味での歴史法学(ゲルマニスト)であり、「日本の固有主義」とは日本固有の仏教と神学の絶妙な関係で在り、「東アジアの固有主義」とは儒教中華思想のことである。「日本の土着主義」とは、特に報徳思想のことであるが、それは代表であって、より仏教の影響を受けた近江商人の思想やその他の商人思想までを含むかもしれない。
後二者は日本において歴史上展開された抽象的な理念であるが、それらが絶妙に組み合わされて急ごしらえでできた考えも含んでいるーそもそも日本がどれだけ思想的であったかが、自覚できていない向きがあるので、なかなか分別が難しい。
天皇家」と「王家」の論争のことである。天皇の歴史的位置づけさえまだ難しい(私は、天武までは、アメリカのチェアマン的な役割だったと思うので、「天皇家」は国家ありきの近代思想であると思うー歴史上はじめて天皇の前に権威が現れた。その意味で、日本における「近代化」は「国家化」で、本来のポスト・キリスト教社会の含意はねじれて理解され、それが「戦前」理解※の困難にもつながっていると思う。ともあれ、それまでは豪族が「家」を為し、天皇は諸豪族のうちから輩出されたと思っている)。

※ここで、「戦前」とは、終戦の前という時系列のことではなく、辻正信の失踪までを指す。服部、辻らの戦後の(旧軍勢力による)クーデタのわずかの可能性さえ潰えた乃至最後の(過去の)「軍閥」がなお政治的勢いを駆って中央の政治共同体への捲土重来を期していたところ、経済政策群とそれを支える政治体制及び「普遍的理念」(ここで、財政民主主義は、愛国による民主主義:固有主義と権利による民主主義:ヨーロッパ普遍主義に割って入った。)を掲げた「省閥」に抑え込まれたときに、「戦前」が終わったとみなす。

さて、注意点とは、マイネッケのナチス分析であるが

ヒトラー理解(偶然性への不可避感)
②ゲルマニスト理解(固有性への忌避感情☟)

に支えられ、特に②は、

を読むと、詳細にわかるということだ。
偶然性への理解はそれ自体ひとつの系譜を為すので、別の解説を読まなければならないかもしれない。

ただ、何度でも言うが、ヒトラー理解はこれまでの西欧の理解ではおかしく、むしろナチスが「高IQ愛好(傾倒)」というバイアスを持ち、「普遍的人間中心理解」(中心に力点:自然克服の思想の一形態ではないかと今のところ思う。)から発達障碍を見逃している点を強調したい。
そういった意味※では最近ようやく強調されるようになりつつある、中国大陸からの影響がまだまだ顧みられていない点は、これからの研究を待つしかないのだろう。

※人間中心理解は仏教にも見られ、日本人の歴史理解は、戦後のマルクス主義歴史学とあわせて、この頸木から逃れられていない。
歴史的には強固な自然イデオロギーに対抗するためだっただろうが、どうしても「列伝」化してしまう。
自然イデオロギーはもともと統治理念であったが「普遍的」文化へ後退し、これもまた、古代史の観察眼を曇らせる原因となっているようだ。

自分の興味からは、

への理解をより深めてくれるならありがたいと思う。
日本ではロジシャンの歴史がないために、日本語の持つ論理構成力が戦後は顧みられなくなってしまっている。戦前にはあったが、一緒くたに廃棄されてしまった。


【備考欄】

☞「忌避」に付く助詞について

①への(忌避)
②への(忌避~) ex.態度、感情
③からの(忌避)

 

本研究では,嫌悪対象への忌避が潜在的に見られるかを検討した

研究会 - 視覚的嫌悪感がもたらす接触忌避反応

への忌避ーgoogle検索

2 訴訟事件に関して、裁判官や裁判所書記官に不公正なことをされるおそれのある場合に、当事者の申し立てにより、その者を事件の職務執行から排除すること。また、そのための申し立てをすること。→回避 →除斥

忌避とは何? Weblio辞書

『1は嫌って避けること』を、嫌って/避けるという心的昂進の段階の順序を見て取ると、前者に重心を置くと「への」、後者に重心を置くと「からの」になるのか、構文統合的には、「避ける」を「嫌って」が修飾しているので「からに」になりそうだが、語意より語感が先立つのだろうか。ニュアンスとして流されやすい語かもしれない。

マイネッケの本論では、まさに「忌避感情」であるが、一方で偶然に対しては、どうだろう。確率問題と謂うよりも、(操作)不能問題だろう。それは世界認識であって、感情とは違うと思う。