岡田良一郎 - Wikipedia岡田良平 - Wikipedia一木喜徳郎 - Wikipedia

文部官僚は一木喜徳郎ではなく、兄の岡田良平。
一木喜徳郎は内務官僚。

一木喜徳郎が文部官僚で、兄の岡田良平が寡占的に学校関係の要職を歴任するグループのひとりであるとして、文部閥(の存在)を示唆するが、一木喜徳郎は美濃部達吉の師匠として影響力を発揮していて、美濃部達吉は知己を通じた上海財閥系とのつながりを伺わせる。報徳思想に理解の深い経済人と言えば渋沢栄吉が有名であるし、また内務官僚との繋がりでは児玉源太郎が有名であるから、当時の状況から、文部閥、学校閥を考えたい気持ちはわかるが、それはむしろ、師範学校法律学校の、後発組の一群で形成されたのではないかと思う。

それよりも、明治の近代化が、実は近世思想の上に成り立っており、日本の近世思想と西欧の近代思想が、「天下(の理)」と「自然(法)」を巡ってしのぎを削っていた様子がうかがえ、それが(聖徳太子までさかのぼるとニュアンスが広がりすぎるので)新井白石以来の、小国主義(国内政治重視。国内派)、大国主義(国際政治重視。国際派)の伝統に載って、大正に入ると、平沼 騏一郎ら国際派が巻き返したのではないかと思う。法学に限って言えば、自然法の原理的な受容に関係する。

文化面ならば、それが、(報徳思想に対する)大正生命主義で、これはもともと、科学思想の進展に伴う世界的な(これ自体は近代的な啓蒙主義の源流である)ロマン主義的なことへのバックラッシュであったが、仏教思想を中心にまとまりを見せる中で、日本主義へ帰結して行った。日本主義とはみかけの話であって、本来は、(自然主義に対する※)「人間主義」のことである(命ひとつ=人間一人。この単位制度が実証性である)。

※日本文化の伝統から言えば、抽象的な中国由来の思想(老荘から儒学まで)に根差した考え方で、実証的なインド由来の思想とは元来対立していたが、調和して受け入れられてきた(それを伝えた中国においてもしかり。すなわち、中国大陸でこの対立が或る程度こなれた後で、同時に伝えられた)。

「自由」や「権利」と云っても、根底は、近世思想が支えて或いは近世思想の介添えで一般的に理解されてきたという歴史は改竄されるべきではない。

元良勇次郎、一木喜徳郎などは、当時の社会に広範な影響を与えた、隠れた「英雄」として光が当てられてよい。それが夏目漱石であったり、美濃部達吉であったりしている。根底にあったのは、近代思想と近世思想の相克と調和であったはずである。