前回は、同じ隣接する系列※の東京の麻布中学校(東洋英和学校)と「真愛学校(北陸英和学校)」の顛末を、一中の「利用」で比べてみたが。
※カナダ・メソジスト系なのか、アメリカ(北米)長老会なのか、こんがらがって、これは「同系列」と言ってはいけなかったか。
小松教会の歩み – 日本キリスト教団小松教会
メソヂスト系は「金沢英学院」の方だった。
(北陸地方のキリスト教保育史 ― J.K.U. 年報からの翻訳と解説(5) ―山森 泉)
P167の添付図だが、BとCは仏教系幼稚園らしい。Aが(イギリス国教会~)アメリカ聖公会で、D、Fがカナダメソヂストらしい。この論文では、2仏教系幼稚園に二葉幼稚園が圧迫されているとのことである。なかなか熾烈だ。
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運命の私立学校令、中学校令が公布された明治32年(1899年)に、第二中学、第三中学を設立されて、生徒を「分配」したらしい。
各学校卒業生状況報告. 明治44年10月現在 - 国立国会図書館デジタルコレクション
この頃は、まだ、金沢第一中学も「進学校」と言っていいのか、明治44年など、卒業しても進路が決まっていない者が半数以上いたのだ。
翻って、金沢英学院を見ると、安定的に1/3が高等学校に進むなど、「進学校」と言ってよい実績を残して居る。金沢第一中学はそれを猛追しているような格好である。
ただ、これは、一中を卒業後の進路未定者が、金沢英学院を予備校として通って改めて入試に望んだということだろうか。金沢英学院の運営状況が断片的にしかわからない。
大正4年と言えば、上杉慎吉が政治活動を活発化させて、「天皇機関説」を攻撃していたころだが、第一中学校にも「愛国」「皇道」の字が見える。
ただ、これは史料が乏しすぎる。原田本はネタ本だぞ。せめて『吉野作造と上杉慎吉―日独戦争から大正デモクラシーへ―』(名古屋大学出版会)を参照して欲しい。
(『石川県立金沢第一中学校一覧』巻末)
この運動場の隣に、「ミッション(北陸学院)」があったようだ。
(官報2714号. 1892年・明治25年07月15日)
大谷尋常中学校は、金沢だけではなく、京都にもあった。
明治26年、京都府尋常中学校を京都府に返還した際に小教校の名称を大谷尋常中学校と改称し、翌年、東山区の現在地に学校を建設した。
別れた両者の行く末
大谷中学校・高等学校 (京都府) - Wikipedia
京都府庁の敷地内に、中学校があったと聞いた。その中学校の名前とその後の変遷を知りたい。 | レファレンス協同データベース
京都の大谷尋常中学校が独立したその明治26年に、金沢の大谷尋常中学校は金沢一中に吸収され、なくなった。
(簿冊標題:公文雑纂・明治二十二年・第三十七巻・文部省、農商務省 件名:第四高等中学校増敷地用地ニ編入ノ件,2/3)
要は、「広坂通地籍」「千石町地籍」で色分けされている。
「広坂通」という町名はあったようなのだが、見当たらない
「小立野」もそうで、「小立野新町」は見当たるが、「小立野」は「方角」の方に載っている。
(金沢区市街図附録 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
大谷尋常中学校があった「新道」は見当たる。
(金沢市街図附録 ‐ 国立国会図書館デジタルコレクション)
現在の交差点名から推測すると、
北鉄金沢駅から七宝町の乗換案内|地図マピオン
☆金沢商店街物語 - 福念寺 -
真宗大谷派「福念寺」(金沢市芳斉2-5-45)あたりだろうか。
(金沢市街図附録 ‐ 国立国会図書館デジタルコレクション)
「田丸町」だったらしい。
(金沢市街図附録 ‐ 国立国会図書館デジタルコレクション)
そう考えると、「仙石町」の上下に「広坂通」があっておかしくないが、見当たらない。
(金沢市街図附録 ‐ 国立国会図書館デジタルコレクション)
坂は「坂」で、行政区画らしい。
(金沢市街図附録 ‐ 国立国会図書館デジタルコレクション)
そのうえで、「通」
明治8年(1875)には金沢城は兵舎に改造され、歩兵七連隊が編成され、人口も増加し軍服姿の兵隊さんが香林坊・片町を闊歩するようになります。しかし、藩政期の人口に達したのは、大正の初めだと言われています。
なかなか中心部の人口が増えなかったらしい。
アメーバブログがメンテナンスに入った。石浦町あたりも詳しく書いてあった。
明治23年共立尋常中学校が文部省の許可学校となり大谷尋常中学校仮称し、今川覚神に次いで校長となる。明治24年2月~25年3月まで2代校長を務める。
この内山行貫という人が、加藤広吉の著した『国民体操法』(明治29年)で序を書いた人で、東京高等師範学校を明治8年(1875年)に卒業し、石川師範学校で校長を務めたらしい。
[小學師範學科:明治8年6月~明治8年11月]【東京高等師範学校一覧】 : blog[小野一雄のルーツ]改訂版
今川覚神に学んだのが、
なお、
木村榮も同校での教え子。
今川覚神の義理の息子が
1913年(大正2年)、房子と死別[2]。1914年(大正3年)、共立尋常中学校校長であった今川覚神と多(金沢常福寺娘)の長女総子と再婚[2]。
その間を繋いだのが、藤岡作太郎で、
『精神界』をリアルタイムに入手していた藤岡作太郎 - 神保町系オタオタ日記
藤岡作太郎は、京都の大谷尋常中学校改め(明治27年・1894年。)真宗第一中学寮で教えたらしい。
それはそうと。
「墨」と「金箔」の値段を比べるのが興味深い。「蝋燭」もよく売れたのだ。