いまあらためて、「坊ちゃん不良(学生上がり)説」を唱える。
つまり漱石は、「坊ちゃんは、そういう『育ち』なんですよ」と描いているわけです。
「地方から云々」と言っているが、もとより「血気盛ん」若者が集まると、自然とこうなる、という方が納得できる。学生運動にしても、所詮はそんな話で、とりたててどうのこうのいうことは、ない。
[参考]金沢士族の人口動態と学力
石川県における旧制中学校教育機会,井上好人(以下、井上)
士族と社会移動
こうして加賀藩の事例からは,前掲,園田英弘ほか『士族の歴史社会学的研究』が提示する仮説のように,「明治維新により上位の者が没落し,代わって下級武士が社会のリーダーになっていった」という通説を否定して,「かつての上級武士層が学校を利用して近代セクターの高いポ ストに到達している」とか「学歴エリートに転化したのはかつての上級武士層が多」かったとは 単純に整理できない121。通説も園田ほか説も一面では妥当するが全面的には妥当せず,事態はもう少し複雑なようであった。
さらに,多くの武士が官吏・教員・巡査等の公務職に転身していった点は従来から指摘されてきたことであるし,その内部でも大きな格差があったことはよく知られている122。121 同書(引用者註:井上),259頁。
122 たとえば,水谷三公『官僚の風貌』(中央公論新社,1999年),前掲,園田「郡県の武士」193頁。
とまれ、『坊ちゃん』は(単純なエリートと言うよりも、「その内部でも大きな格差があ」って「もう少し複雑な」武士の行く末を示した)元祖『GTO』なイメージなので、品行方正であると趣旨から外れると思う。
そうすると、漱石流の「個人主義」と無頼派とを繋ぐ線が浮かび上がるのである。
markovproperty.hatenadiary.com
有名な、エリート「不良学生」の例
1906年 曾木電気を設立し、鹿児島県の大口に曽木水力発電所を開いた(後のチッソ、旭化成、積水化学、積水ハウス、信越化学)。
(1906年は、漱石が『ホトトギス』の付録で『坊ちゃん』を発表した年である。)
文部省と朝鮮総督府の履歴書が若干異なる。
実は、夏目漱石の、成立学舎からの大学予備門・第一高等中学校の後輩だったりする。
野口は放校処分にあい、漱石は腹膜炎で落第するなどあった。第一高等中学校、東京帝大では、1873年生まれの野口は、1867年生まれの漱石の、2年後輩となっていた。
貸費生であったため、北海道岩内町に籍を移す
野口は金沢の士族出身なのに、なぜか、卒業時の官報では「北海道士族」となっている。そして、「準江戸っ子」である。
(時代を創る者. 財界人物編 第3輯 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
犀陽遺文 - 国立国会図書館デジタルコレクション
野口之布とは - コトバンク
士族出身なので、漢文も得意である。
郡司成忠 - Wikipediaに預けられていたらしい。
中野初子 - Wikipedia
「江の島、鎌倉間の電車の運轉手になった」とのことである。
なぜか「貧乏」自慢をしたがる。それほど貧乏でもないが、要は、次文の導引である。
辻政信、瀬島龍三もそうで、これは一種の「型」であるようだが、一方で、華族ではない。そういう微妙な階層文化があったのだろう(軍人エリートの場合、民主的に兵から推戴される必要もあったが、野口はなぜだろう)。
なんと大久保利通を暗殺した一味が、野口の父親の弟子だったらしい。
長々と引用したのは、これが見たかったのである。
「遵う」にちなんだこの口上がお得意だったようだ。
そこらへんに「不良性」を感じたのであった。「俺は鼻が高けえ(花形敬)んだ」。
you tubeで麻布警察に連行される様子が見られたりする。
夏目漱石はやはり面白いじゃないか。
私たちが現在勝手に想像する「明治」を裏切ってくれるからだ。『坊ちゃん』は「物理学校出身のエリートだったんですよぉ」と言うには、成立学舎(私立の実質進学予備校)~一高~帝大の(一度没落した家をたてなおした富裕な、ただし養子に出された)中央(東京)出身者が、購買層が限られた『ホトトギス』に発表した、という複雑な経緯を忘れてはならない。
士族出身で帝大電気科卒「電車の運轉手」の元「不良学生」である「準江戸っ子」の野口遵が「貧乏自慢」をする複雑さよりも、複雑である。
ややこしいのが嫌なら、(『坊ちゃん』の場合「教師」というのは社会世相を反映した鏡像だから、教師のイメージを追求する前の)元祖『GTO』と考えとけば、半ばイメージを損なわないと思う。都内の私立名門進学校の社会科教員という設定って、そこそこ好え所得階層だろうからね。
乗り物が電車からバイクに代わりました。より「ハイカラ」です。
文法がわかれば小説が「読める」なんてイデオロギーだよ。
ただのエスニックだ。
ちなみに、3年後に、参禅友達の元良勇次郎は、こう言っていた。
(明治42年・1909年,論文集 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
だから清の墓は小日向の養源寺にある。
夏目漱石の戒名とお墓について詳しく知りたい。 | レファレンス協同データベース
釈宗演 - Wikipedia
ということである。