One who loves the truth and you,and will tell the truth in spite of you.-Anonymous                    武者小路実篤番外

こうなると確かに壮大であるが、

(P73,夏目漱石先生評釈Othello - 国立国会図書館デジタルコレクション)

夏目漱石の限界が何だったか、興味深い。

『坊ちゃん』などは神話的な英雄譚をモチーフにした実験としか読めず、それを「墓」と締めくくることで、近代に拓かれたと思うが、『こころ』に至って、明治の精神の墓標を立てて偲んだように思える。代わって、大正の精神の道標を打ち立てたのが、武者小路実篤という見立てである(実際の社会には様々な動静があって、そう単純に考えるわけにもゆかないが)。

小谷野さんのこの本が面白い。話が早くて、歯切れが良い。

  1. 「四国当たりの中学生」については、(金沢も同じだが)もちろん、禁酒、禁煙、禁エロ本、禁暴力を厳しく言わなけれならないくらいの「不良」が当たり前で、そもそもそれが「悪い」と思っていたかどうかさえ、怪しい。
    知られたところでは、松下村塾」に、そんなに模範生徒がそろっていたというのだろうか、という素朴な疑問である(高杉晋作が不良生徒なら、師匠の吉田松陰は大した教師でもなかった※。)。松下村塾元服後に正式に入塾していたのか、旧制中学校より若干年齢層が高いように思うが、『坊ちゃん』では、中学生が師範学校の生徒と諍いを起こしているので、17歳頃と考えると、だいたい同年齢と考えてよさそうである。青年前の少年である。漱石は、もちろん、維新の時代の(、弟子の鈴木三重吉が辟易とする)人間である。
    ※「生きた学問」を教えたというが、基本的に、「文学」と「(軍事)実践学」ではないかと思う。要は、先任兵による指導の延長のようなことである。それが現代的な意味で「良い先生」とはとても言えない。
    16 その2「中学校と師範学校①」 - 『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ
    大正新教育以前の話である。

  2. 漱石個人主義について言えば、それ以前に、「病弱」「神経質」「癇癪持ち」が挙げられると思う。天然痘痕を生涯気に病んだ人で、そのせいではないが、変わり者だったのだ。「個人主義」というよりも「孤独癖」であるように感じる。イギリス留学でも苦労したのではなかったか。漱石は弟子を沢山とって面倒を見たので孤独ではなかったが、「個人主義」は体の好い言い訳になったと思う。

    夏目漱石の本に関して。明治頃、夏目漱石の交友関係はかなり広範にわたり、有名人... - Yahoo!知恵袋
    弟子以外では正岡子規のほかパッと思い浮かばないのが哀しいところで、元良勇次郎も同様に語られて欲しい。漱石神話を助長していると思う。

    黙翁日録: 漱石の円覚寺参禅(1894年(明治27年)12月23日~翌1月7日) 「彼は前を眺めた。前には堅固な扉が何時までも展望を遮ぎつていた。彼は門を通る人ではなかつた。又門を通らないで済む人でもなかつた。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であつた。(『門』二十一)
    ただ、これは『こころ』の主題になると思うが、正岡子規との「友情」が特別だったのだろう。

  3. 「俺はお前らなんか嫌いだ」について言えば、『坊ちゃん』は神話を参照して、スサノオノミコトをモデルにしたのではないかと思っている(ただし、4および8)。
    これは当時の法学、というよりも、世界的な潮流として、「近代国家の一里塚」としての「歴史法学」があって、井上毅もそうであったが、「近代文学」にしても、日本の歴史に題材を「とるべき」(と考えたの)だったのではないか。
    リベラル史観はこういった歴史を覆い隠してきたのであるし、「人間中心」と言えば格好が良いが、要は、いまだに「英雄史観」であるように見える。

  4. 勝小吉モデル説は、導入部に関して、説得力があるように感じた。要は、江戸末期の、身分制のすそ野で流動化していたころの町民化(地方なら、百姓化)した武士で、「手前生国の発します所は」と威勢のよいことをやっていた人だったのではないかと思う。
    いかにも身を持ち崩した人らしい美学を身に付けた人格の持ち主だったわけだが(酒乱の暴力亭主にも「美学」は言える。ただ、それが身勝手なだけだ。)、これがそのまま『坊ちゃん』であるというのも不思議な話だ。小谷野の最初に言ったように、別のイデアがあったように思う。はっきり言えば、シェークスピアである。そうなると、「江戸っ子」とはイメージが反対の、「カッペ」の方が近くなる。そういった混合的な人格となっている。異文化交流譚なのだが、上下と左右がねじれているのだ。

  5. 「松山あたりの中学」にしても「親譲りの無鉄砲」にしても「無粋」にしても、雪国の冒頭と同じくらいには、不思議に感じていた(何しろ、子どもの頃には長野に住んでいて、盆暮れに「汽車」(特急)での帰省を毎年経験していたのだから。あれも自然な感情ではけっしてなく※、文化的に教育されることであると間違いなく言える)。
    ※「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」(川端康成『雪国』冒頭文)が嘘なわけじゃない。それは最初びっくりする。ただ、そういう構図を思い浮かべるとは「限らない」ということで、それはまったく外国人といっしょだと思う。少なくとも私は外国人とまったくいっしょだった。親からそういう「見立て」を教わっただけのこと。川端の言う「ドメスティック」というのは、感情ではなく、「感情教育」という文化のことを指す、ということ。情景と構図の違いがある。幼子に情景なんてことが、ない。身長が足りないけれど、メタ認知は5歳頃から発達するので、構図は(発達段階に応じて)、ある。だから、外国人に近い。
    らに付け加えると「汽車」と言いたがる心情のことである(これは単純な事実の錯誤ではない)。

  6. 「抵抗精神」について言えば、むしろ「一揆(強訴)」の心情である。これは、反対に「喧嘩両成敗」があって、「喧嘩両成敗」は意外に藩法としても家法としても普及していないのだが、なぜか、その精神は広く伝えられ、要は、「公訴権の確立」という法的リテラシーの醸成である。この反対に「一揆(強訴)」を位置づけることも可能である。つまり、お上が取り上げないなら(表向き、公訴できないなら、超越的に)、強訴する(実力行使に出る。ただし、自力救済ではなく、あくまで、天下の元に、「公正」な取り扱いを求める)。要は、普遍的な三者関係の確立である。
    これが明治維新後の、明治の政治文化でもあった。学生・生徒が暴れるのはもちろん、志士も学者も暴れた。美濃部達吉が行ったのも、強訴で在り、法的な意味でクーデター(正統性の変更;実質的な、解釈改憲)である。
    これが、明治維新の二面性で、「旗本から官僚へ」という「人事の刷新」と、「天下(クニ)から世界(国家)へ」という「正統性の刷新」である。前者は、中央政治の内実で、後者は、地方の内実を反映している。地方では、幕府と藩の二重規範(例えば、「赤穂問題」。)からの移行が問題だったのだ(ここに財産問題も絡む。華族御用達の銀行業の需要はあった)。
    ここに、リベラル史観の一様態としての、東京史観がある。世の中そんなに単純なわけがないのである。

  7. 個人主義の「理非がない」ことを、敢えて前述6に寄せて考えるならば、一揆は神祇に誓う血判状を作成した経緯もあったようで、社会関係からの超越を旨としていた。「正義を訴える」とは基本的にそういう根拠を持つ。

  8. 坂田公平説は、勝小吉説以上に、説得的である。

 

作品にタバコが登場する愛煙家の作家たち - 禁煙にまつわるお役立ち情報

学歴で読む、夏目漱石の『坊ちゃん』 | 大学キャンパス建築散歩

これが詳しい。なるほど。
現代で云ったら、


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であるが、

(1910年・明治43年社会百言 - 国立国会図書館デジタルコレクション

当時の「不良学生」の場合、「学生」なのであった。

1906年明治39年)、『ホトトギス』第九巻第七号(4月1日)の「附録」(別冊ではない)として発表。1907年(明治40年)1月1日発行の『鶉籠(ウズラカゴ)』(春陽堂刊)に収録された。その後は単独で単行本化されているものも多い。

坊つちやん - Wikipedia

堀内 新泉とは - コトバンク

という人が居て、大正時代に「立志小説」を買いて「青少年に好評」だったらしい。

努力 : 立志小説 - 国立国会図書館デジタルコレクション
義侠の人 : 立志小説 - 国立国会図書館デジタルコレクション

内容は同じなのだが、出版者(社)が「 東亜堂書房」から「邦光堂書店」に替わっている。
『坊ちゃん』とはだいぶ趣が異なる。「我ゆえに親を泣かせる不孝」(P.212,上掲)な

煙草を掻拂かっぱらう好い服装みなりをした學生である。

(P.41,明治期『太陽』の受容構造,永嶺重敏

そもそも当時『坊ちゃん』を読んだのは誰か、ということである。