One who loves the truth and you,and will tell the truth in spite of you.-Anonymous                    武者小路実篤(番外)

それぞれに膨大な背景があるので、インナーでなければ、ビビッドにニュアンスがつかみにくいのではなかろうか。

それが夏目漱石美濃部達吉の(留学の)限界であって、明治のひとつの様相でなかったかと思う。(中世乃至)近世的近代である(シェークスピアは、中世的近世と近代的近世の渦中、過渡期の人であったらしい)。

しかし、その「近世」とは、日本のことであるから、その点では、(漱石よりは)新渡戸稲造、(美濃部よりは)上杉慎吉の方が、「よくわかっていた」と思う次第である。

toyokeizai.net

要は、フーリガン化していたということであり(だから、新渡戸がサッカーと比べるのは※1)、そもそも「生徒」(乃至「学生」)によいイメージを持ちすぎであって、そもそも(生徒※2は)輩で、何かと騒動を起こす存在だったことをすっかり忘れている。

※1と言っても

コラム:野球と蹴球 | 写真の中の明治・大正 - 国立国会図書館所蔵写真帳から -

ラグビー系」(「ラグビー式」)だったようだ。
はて、サッカーは庶民のスポーツで在り、ラグビーは貴族のスポーツだったのか?

当時のパブリックスクールは「荒れていた」のです。そこでラグビー校では様々な改革をなして行き、それにつれて評判が上がっていきます。そういう教育改革の中にラグビーというスポーツを取り入れていたのでした。

ラグビーは貴族のスポーツでサッカーは庶民のスポーツといいますが、現代においても、そういう傾向はあるのでしょうか? - Quora

こういうことを言えるのが、新渡戸であった。
生徒・学生なんてのは、最初は、地方の士族の倅も少なくなかったのであるし、「荒れていた」のである

※2 なんと、上杉と同じ大聖寺の人だった。

1911年(明治44年)、『東京朝日新聞』が展開した野球害毒論キャンペーンの一つとして、『東京朝日新聞』9月5日号に、「旧選手の懺悔」(名倉聞一)と題し、河野が野球の害毒を懺悔する談話が掲載された。河野は捏造であると抗議したが無視され、『東京日日新聞』9月8日号に反論を投稿した。『東京朝日新聞』は、9月10日号にようやく河野の反論を掲載した。さらに、野球害毒論の「野球をやると利き手が異常に発達するので有害」という主張に、9月17日、読売新聞社主催の「野球問題演説会」に出席し、自らの両手を挙げて反論した。

河野安通志 - Wikipedia

大事である。
この人の在籍した「早稲田大学商科」とは、専門学校令に基づく「大学」だったらしい。

早稲田大学大学院商学研究科・商学部 - Wikipedia
専門学校令 - Wikipedia

www.chunichi.co.jp

1917年(大正6年)の早稲田騒動では天野為之派の闘士として活躍、9月11日深夜に起きた革新団校門占拠事件にも加わった[1]。しかし天野派は敗北し、河野も早大を追われることになった。

野球に害毒が在るかどうかではなく、こういうことは、別に珍しいことでもなかったようだ。(この人かどうかは別にして)寮でも武勇伝に事欠かなかったようだ。それが自慢気に語られるのであるから、そういうことである。


正岡子規の野球熱、すなわち、夏目漱石と比べる材料である。