極東王に俺はなる

今日を築くまで - 国立国会図書館デジタルコレクション

ただ、野口遵は日蓮宗の日輝上人を大叔父に持つらしく、特別に尊敬している。

「前田家の菩提寺である立像寺」(P.110)と言っていて、

立像寺 (金沢市) - Wikipedia

前田家の祭祀 - SHINDEN

富山の方だろうか?

www.gokokuzan-houenji.jp

www.kanazawa-kankoukyoukai.or.jp

www.kanazawa-kankoukyoukai.or.jp

養源寺 (文京区) - Wikipedia

釈宗演 - Wikipedia

『坊ちゃん』の方はどうも臨済宗である。石川県 ゆかり の人物ならば、鈴木大拙であった。

motomiyatakahiro.hatenablog.com

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

こらこら加賀を無視するんじゃない。誰が下級武士じゃ。
なら、坊ちゃんも曹洞宗の方がよかっただろう。没落してんだから。

これだから中央史観は弱る。


弘中又一 - Wikipedia

「坊ちゃん」で検索した結果である。

検索結果 - 国立国会図書館デジタルコレクション

同志社の主張によると、

『埼玉と弘中又一:坊ちゃん先生は熊谷に生きていた!』校友:宇治郷 毅氏寄稿 | 同志社校友会 埼玉県支部

いや、同志社ならキリスト教だろう。そもそも、江戸っ子にまったく関係がない。

ちなみに、野口遵の一人称は「僕」であるが

夏目漱石 坊っちゃん

坊ちゃんも実は「僕」である(内心では「俺」である)。
「僕」というのは、最近、やたらと評判が悪い。実は私も職場で「直せ」と言われたことがある。まぁ巷とはそんなものである。
冒頭の『今日を築くまで』の中で「俺」を使うのは、旧熊本藩士の

宗像政 - Wikipedia

である。

私は小学校低学年は長野に居て、あそこは師範学校の伝統が強かったのか知らないが、作文では一人称に「私」を使うよう指導、1年生では推奨で2年生からは強制だったと思う。理由は「「僕」は幼稚で恥ずかしいから」であったが、こちらへ引っ越してからは卒業文集でも「僕」を指導し、統一していた。私はこれでもう書くことはないので好きなように書かせてもらいましたが。これは学力にまったく関係がない。せいぜい平仮名で「ぼく」と書くか(長野だと罵倒されかねない、というか、された。)漢字で「僕」と書くかであり、地元希望の星は、最初平仮名で書いて注意されて漢字に直したくらいである(要は、作文が苦手なものだから、隣の児童の真似をして書くよう指導されたら、そうなったようだ。なお、真似をされた方の児童は訂正を指示されていない。「平等」というのもいかがわしいものだったのだ。指導上気を付けていたのは、児童の抱く「平等感」であって、その子その子の「理解力」にあった指導が「これ」だったのだ。いや、そもそも、真似して書かないとわからない時点で、どうなのだということなのだが、それはそれである。結局、真似された方も、意地で直したと思う)。これは非常に「民主的」な指導だったのだろう(転校するときに、兄の担任が女性で、長野と石川の教育事情の違いを説明し、非常に羨ましがっていたと聞いた。長野は完全に男性優位であった。石川はそんなことはないのであった)。「わたし」は女児の専有だったのだ。なるほど、そういう「平等」もある。日常会話で「ぼく」を使う女児も居たが、目立っていたと思う(これについては、歴史からの研究があったと思う)。

日本語の一人称代名詞 - Wikipedia

帰省旅行,明39/1906.7 - 国立国会図書館デジタルコレクション

破れ恋 : 家庭小説,明40/1907.7 - 国立国会図書館デジタルコレクション

「俺」文学と言えば、この大先生らしい。五峰仙史。

検索結果 - 国立国会図書館デジタルコレクション

『坊ちゃん』と同じく明治39年1906年)4月に出版された『世界滑稽旅行』で「俺」と「僕」が交差する。早稲田出身を騙っていると思しき「 ばん  (蛮)カラ先生」こと石田氏と慶應出身を騙っていると思しき「ハイカラ先生」こと小池氏の、不惑(40歳)を過ぎた二人旅で、新橋停留所では身なりを見た紳士からハワイか台湾への出稼ぎと間違われて憤慨しつつも、汽車に乗って横浜へ行き、そこからワシントンへ渡航した。

世界滑稽旅行 : 洋行奇談,明39/1906.4- 国立国会図書館デジタルコレクション

むづ い」。なんと、嘘か真か、海軍大学校甲種学生入学試験問題(阿川弘之「海軍こぼれ話」。阿川弘之東京帝国大学文学部国文科を繰り上げ卒業後海軍予備学生として入隊。志賀直哉最後の内弟子。父甲一はシベリア鉄道建設工事を請け負うなど多彩な事業を営む人であった。なお、Wikipediaによる。)に「むつかしござる(六つ菓子五猿)」と答える問題があったとか。

世界滑稽旅行 : 洋行奇談,明39/1906.4 - 国立国会図書館デジタルコレクション
五峰仙史の宣伝はないが、羽化仙史の宣伝ならある。改名でもしたのだろうか?知らない。

羽化仙史は渋江保のことらしい。

世界英雄神髄,明36/1903.10 - 国立国会図書館デジタルコレクション

徳富蘇峰が序を寄せていて、何かしらあるのかと著者を見て気づいた。

渋江保 - Wikipedia

五峰仙史が羽化仙史なら意外な発見でなかろうか。これほどの人なら夏目漱石とタメを張ってもおかしくない。共立学舎と大学南校に籍を置き、師範学校(後の東京高等師範学校)一期生である。よほど勉強が好きなのか、浜松師範学校の教頭を務めた後、慶應義塾大学に入学し、卒業している。大学館から多数の著書を出している。あの博文館からは英語の辞書や希・英・独仏の文学史を出している。

ロングマンス読本註釈 第1,明治31/1898 - 国立国会図書館デジタルコレクション

"Good-by"の振り仮名が「グツドパイ」となっている。『世界滑稽旅行』では「グードバイ」である。悩ましい。

ロングマンス読本註釈 第1,明31/1898 - 国立国会図書館デジタルコレクション

変なことに気づいた。今まで一人称が、「僕」か「俺」なのかを気にしていたが、予/予の組み合わせの場合と、私/予の組み合わせの場合がある。そう言えば、「僕」か「俺」かであるというより、僕/俺の組み合わせだったのだ。なお、これには、「俺(或いは、おれ、オレ)」も「朕」も「拙者」「小生」もない。「吾輩」はないが「予輩」は出てくる。"We""us"の訳語である。訳語/意旨の組み合わせは余輩/我レ等である。"us"は我レ々々ともされる。組み合わせは同じく余輩/我レ々々である。「余」も出てくる。組み合わせは予/余である。面白いところでは、"every one(everyoneではない)"を「各ノ 者(ガ)」と訳しているが、意旨では、「我レ人共ニ」としている。「我」は主に「我カ」という所有格の訳語で出てくる。「己」はコンプレックで、"you""your"を「汝等」「汝等ノ」と訳したときに、意旨で、「足下等」を受けて再帰的に「己レノ」としている。別の文章では、"he"("let me")"him"「彼ガ」を受けて「(予ヲシテ)己レヲ」としている。「某」も出てくるが、"(a) certain"を「(一ノ)アル」訳した註釋で「アル家トハ、某家ト云ヒテ定マリタル家ヲ云フナリ」としている。

こうなると、会話体/文章体、言文一致どころか、もっと細かくケースごとに使い分けていたのでないのかと思えてくる。しかも、組み合わせの使い分けである。別に統一した人格である必要もない。
要は、こういった細かい使い訳の中から、「俺文学(僕/俺の使い分け文学)」が生じたのではないかと思うのであって、「俺文学」を創出したのはやはり、夏目漱石ではなく、五峰仙史だと思いたいのであった。

なぜ気付いたかというと、

を見ても、ざっと目を通す限りでは、「私」しか出てこないからだ。そんなことがあるのだろうか?と思った次第である。もしかしたら会話文での基調乃至正調は「私」だったのかもしれないと思ったのである。

『滑稽女学生旅行』がないのは、なぜなのか?夏目漱石は、目ざとくここらへんからもパクったんでなかろうか?夏目漱石には流行に敏感なところがあった。

滑稽女学生旅行 続 ,明治40/1907.3- 国立国会図書館デジタルコレクション
漱石より早く「俺」の多用を確立したのは誰なんだ。

さて、野口遵は帝大を出て電車の運転手にはなったが、当時、帝大を出て中学校の数学教師という道はあったのだろうか?夏目漱石はなんで松山中学校の英語の教諭になったのだろう。

明治期の旧制中学の先生は、殆ど師範学校出身ですか?先日、ドラマの坊っち... - Yahoo!知恵袋

赤シャツのモデルは夏目漱石自身である。野口遵がモデルだとその点は不自然だったのだろうか。

中学校教師だった先祖の家系図作成調査

帝大出の文学士の典型的な就職先とまで言っている。

三上章(みかみあきら)とは? 意味や使い方 - コトバンク

あ、そうか。三上文法の三上章は東京帝大工学部建築学科出身ではないか。中学校の教諭となっている。