お前、誰…??? pic.twitter.com/g3nCqBJ7jf
— ショーテニング (@hairwipedout) December 1, 2023
見つけたのすごいし、保存状態がきれいなのがうれしいね。
hoi.4への言及も共感。
これね大正12年(1923年)でしょ。
後の「朝鮮(半島の事業)王」と呼ばれた金沢生まれの東京人(大学入学時は原籍の関係上北海道士族)野口遵(旭化成の母体であった、チッソの前身である日本窒素肥料を設立した人。)が朝鮮への事業進出を決めたのが、大正13年(1924年)で、敦賀の豪商、大和田荘七(大和田伸也さん・莫さんのご先祖)が、報徳思想の推進者岡田良平(当時文部大臣。「天皇のご意見番」一木喜徳郎の兄。)の後押しで、チタ共和国(極東共和国)の代表と、通商上の会談を開いたのが、大正11年(1922年)だったんだね。
会談自体は意気投合して成功するんだけれど、莫斯古(モスクワ)政府によって覆されたんだね。会談相手のオルゾーニンも行方不明になったらしい。
大和田荘七は銀行家だけれど、現在の東京工業大学の出身で、帝大電気工学科出身の野口遵とともに、所謂理系出身の事業家だったんだよね。
貴重な資料だねぇ。
個人的には、野口遵は、夏目漱石の『坊ちゃん』のモデルの一人だと思う。
電気出身で、無鉄砲、一方で仏教に篤い。
夏目 漱石 1867年02月09日 - 1916年12月09日
野口 遵 1873年07月26日 - 1944年01月15日
『坊ちゃん』は1906年(明治39年)。野口遵32歳。夏目漱石39歳。
これが本人の口伝以外ではあまり言及されない。だいたいその次の職歴から始まる。
1896年卒業なので、「江ノ電」の営業前である。
何になるのか。
江ノ電の歴史について超分かり易く簡単にまとめてみました。 | 湘南ブログ
どうもこれじゃなかろうか?
江戸時代に観光地化した鎌倉は、明治20年代に官営鉄道(現・JR東海道線、横須賀線)が延伸され「大船駅」「鎌倉駅」が設けられたことで、交通利便性が向上。療養のための海水浴場が整備され、保養施設が建設された。1902(明治35)年には江之島電気鉄道(現・江ノ島電鉄)の藤沢・片瀬(現・江ノ島)間が開通、その後、鎌倉方面に路線を延ばしていった。
江戸っ子であることが物語上意味があったので、江ノ電ではなく、開通した街電にしたのではなかったか?その関係で、帝大ではなく、東京物理学校(現東京理科大学)にしたのではなかったか?
いや、
ところで、「技手」というのは、職工や運転手より格が上で、仕事のマネジメントをしたり、監督したりする役だったと書かれている。小説に書かれているような坊ちゃんではなく、彼は専門学校出で、大学出のエリートではなかたので、いろいろあったに違いない。
帝大出ても運転手をしていたと本人は主張しております。
こうなると、野口遵のこの微妙な経歴は、「歴史的事実」になるんじゃなかろうか?
ちなみに言うておきますけれどね。
1903年(明治36年)1月20日に英国留学から帰国した[18]。3月3日、東京の本郷区駒込千駄木町57番地に転入(現在の文京区向丘2-20-7、千駄木駅徒歩約10分。現在は日本医科大学同窓会館。敷地内に記念碑あり)。
1903年に仙台に行く前に野口遵も本郷区が住所でしたからね。
(官報 1901年02月16日 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
一監査役の氏名住所 東京市本郷区本郷5丁目二十番地 野口遵
ここだぞ。実際に住んでいたのだろうか?「文」ってなっているけれど(近くの17番地も「文」と成っていて、小規模な施設を併設していたのだろうか)。
番地界入東京市拾五区区分図 本郷区図|公益財団法人特別区協議会
左が野口遵の住所、右が夏目漱石の住所である。
歴史を辿ると、