進路指導に関して、メンターがエージェンシー化する問題(クライマックスシリーズ2回戦表)

こうなると、(高1の文理選択は、大学卒業後に向けた就活乃至大学院修了後に向けた就活からの逆算であるとして、大学で学んでいることのベースとなっている考え方を見て、それが主体に関する問題であると意義付けて、本人の責任を自覚させられたら)就活はもう本人に任せて、一方でそれがライフタイムマネージメントの一環であるのに過ぎないとき、親として関与を意識すべきなのは、婚活なのか、あるいは、もっとさかのぼった初等教育での教科学習以外の家庭学習のことなのか。

といったところで、小学校の余儀なくされている苦悩と小学校を取り巻いて児童の置かれていた、社会状況認識或いは期待としての「(社会)制度」の変化を少し見たわけだ。すなわち、今は「半グレ」という言葉が流通しているが、この語の(一方の)対義語が「全グレ」である。「鉄」は、現在のイメージだと「半グレ」と捉えられかねないが、まぎれもなく「全グレ」なのであった(そもそも、「グレー」とは、「鉄」のような存在を指していたと思う※。「ミノル」という漫画の登場人物が居て、「鉄」と幼馴染であるが、彼の説明によると「鉄」はそのようなキャラクターとして造形されていたと思う。いわゆる「組織」の構成員として一時期—或いは、半ば—属していたこともあったし—ただし、所謂「トンパチ」で長続きしない。所謂準構成員どまりだったか。「鉄」の場合は、構成員の外観を必ずしもともなっていないが、その経歴上、「事実上は同等の属性」とみなされている—、正業も事実上持っていなかった—名目上持っている。要は、どこからでも、出たり入ったりなのだ。「鉄」の自認識として描かれているのは、「ボク、ヤクザにならない」ということであって、これは彼が「単純に暴力が大好きな人間」であることの宣言なのだ。あらゆる社会文脈を 表面上 、、、 嫌うアウトローとして設定されている。ちなみに、笑福亭鶴瓶さんはこの漫画の面白さがわからないと言っているが、彼は所謂関西人で、あの 浪速 なにわ 高校ボクシング部に所属していたこともある。赤井英和さんの随分先輩にあたる方で、「先輩からの殴打」で目を負傷してボクシングをあきらめざるを得なかったらしい)。

※あぁ、そうか。この「グレ」が"gray(grey)"なのか「愚連隊」なのかであるが、

それはやはり、"gray"ではないかと思う。知らない。

灰色・グレーの「grey」と「gray」の違い | ネイティブと英語について話したこと

本来の意味の区別とは異なるが、日常的な語感の違いは感じられるらしい。

 

そうなると、興味の方向から婚活事情に関して云々で、「モデルのような「美女」が、これまたいかにも現在的で、スポーツジムにおいて、「イケメン」と知り合ったと思っていたら、それは偶然を装っただけで、ストーカーの疑いがある」という、ひとむかしの表現で言ったら「裏東京ラブストーリー」、今の表現なら「シン・東京ラブストーリー」のような、いやどちらかというと「シン・テラスハウス」か、そのようなxが流れて来たので、今や(「花嫁修業」としての公的制度が廃れて等しい)都会の一つのコースとして設定されている、実は公的機関も(「独身証明書」といった行政証明の発行で)支援している、「結婚相談所」への登録について、こういった交際をめぐるリスクを、個人の足場と成る「レベル」から(したがって、あらためて、資産形成の意識づけの重要性と初等教育からの会計学習を)、考えてみようかと思ったが、

といったxが流れて来た。
この2人もいかにも「現在的」というか、方向性は違えどアクテイビティーを生業として、一方は公的資金を活動の原資と していた 、、、、 が、一方は個人資産のほか寄付を募ってマネタイズしているらしい。

そもそも資本に基づく経営とは、リスクを時間面から管理してコスト化することで、マネタイズ(マネーのプール)を通じたリスクのパージで在り(「プール」による「パージ」)、一言で言うと、「引き当て」にその本質があると思う。

そうすると構造的にいくつかの 懸念 、、 が、実際上はさておき、 原理的 、、、 に生じる(こんなもの別にマルクスを持ち出すまでもない)。
そして、その懸念はまさにリスクであり、その「リスク」はコスト面から見た「期待」であるので、それもアクティビティーとしてマネタイズする発想が生まれたようだ。知らない。

これは内実ボランティアの活動維持の問題で、PTAとのかかわり方や、「ふるさと納税」とのかかわり方とも関連する。別の言い方をすると、ボランティアの偏りをどう厚生効率的に改善するかという問題(資源の最適化問題)なのだが、圧力釜にたとえられたような、参加への強い同調圧力のもと、いわゆる「やりがい搾取」のような人的資源の毀損が公然と行われてきたが、或る程度豊かになった自由な社会において、それに個人が耐えられなくなったわけである。そうすると、「自由」の一表現であるマネーで一般化する方途を探ることとなったといったところである。

こういった世相と高校生も無縁でいられず、ボランティアの担い手の重要な後継として社会的に位置づけられ進学や就職とも関わっているし、またデジタル技術を経由した早期のリテラシー教育にも影響して来る。


暇空がどういった意図でこのツイートをしたかよくわからないが、日本の「法科大学院」の設立の経緯は一筋縄ではゆかない。

まず、そもそも、司法試験の受験資格に義務教育の履修以外の学歴による排除はないが、選抜方法が異なることを、ひょっとして理解していないのではないか。

大学へ進学していない場合(もちろん、法学未修者である。)、教養試験を課されるのだ。この文脈において、「大学卒業資格」とは、教養試験と履修が同等の扱いになっている、ということである。なぜこの確認が大事かというと、そもそも法科大学院の設置に関しては、法曹となる人材の多様化とそもそもその人材の確保が挙げられていたはずが、その際に、従来の選抜試験では合格率が「低すぎる」ことがあって、「事実上、選抜試験に変えて、履修で資格授与する」ことが、欧米の法科大学院の履修と選抜試験の合格率を参考に、議論されたからだ。そして、それは却下された。「法科大学院」と言っても一様ではないのである。

こういった改革は、司法改革の大きな流れの中(の一支流)で行われたので、なかなか理解されなかったのかもしれない。知らない。

なお未修者受験で合格したセレブリティー菊間千乃弁護士が居る。

何が言いたいか。
暇空は全般的に知識が足りていないように見受けられるのだ。

泥くささを前面に出すが、ビューティフル・マインドには永遠に追いつかない。
彼には根本的な問題がある。強がったところで技術的な限界があり、彼は社会的には随分成功してそれに関しては羨ましい限りではあるが、(その成功を踏まえて)子どもが大学進学を考えるひとつの材料となる。
「世の中、知識不足だと、絶対に理解できないこともあるんだよ。知識は「理解すべきこと」だからで、それが体系だからなんだ」と教えなければならない。


教育現場においてもコーディネート業務の着実な漸進がデフォルトになりつつあるか。

これにはいくつもの文脈がうかがえて

  1. 戦前からの矯風会の影響
  2. 「戦後」(「悔恨共同体」=「理想的な戦前」のやり直し)における、「社会矛盾」の文脈
  3. 世界最大の(プロテスタントキリスト教国家であり、「市民宗教」の国家でもあり、二大政党制国家でもあり、アメリカニズムの国である、アメリカの影響

特に昨今は(特に、消費者庁設立以降は顕著に)、ようやく(日本国憲法体制下にありつつ、日本国憲法がそうであるのに)大陸法理解から英米法理解にシフトしつつある現状もある。

フェミニストに関して言えば、アメリカの運動の影響が大きいかもしれない。

なるほど。

この方の活動に文句を言うわけではないが、野次に関して言えば、結局、安倍元首相は殺害されているわけでね。野次と暴力を一緒にはできません。が、大人になれば、それはなだらかにつながっていて子どもの判断力では危ない面もあることがわかるからでね。

「リベラル」が毛嫌いされるとすれば所詮は「道徳」をぶっているだけのことがそれが貫徹していないからでね。主体問題なんだね。動機付けだけを行っている(これが実はオカルトである幾何的世界の本質。善の自動調整)。
動機付けで「十分」という評価なのであれば

この子たちが「独占していなかったら」(子どもも使っていて、多少相手していたら)許されていたかという問題なんだよ。

是々非々なんだよ。つまり=分岐問題。その分岐条件を無視している時点で、先ほど言ったように、(子どもだけの判断では)「危険」なんだよ。

安倍元首相が殺害され、殺人事件の被害者であるとともに、民主主義への深刻な挑戦であった文脈は、絶対に載せないと駄目だし、きわめて卑怯だよね。

道徳がダメなわけじゃない。それは(戦前の)「修身」ということではなくて、フィリッパ・フットの道徳という意味で。はっきり言えば、ジョージ・ブールの方がカール・マルクスより重要な人物で、マルクス主義の道徳性はフィリッパフットの道徳哲学に置き換わったんだよ。1人のドイツ人は2人のイギリス人の陰に隠れるべきなんだ。そして1人のアメリカ人、キャロル・ギリガンによっては、見る影もない(彼女自身がどう言おうが)。