葛葉村名苗家の場合。「山役」(林業)、「蝋役」(蝋の生産)以外の、その他商品作物、笊笥、紙漉き・悌具売・狩人・炭焼商売は年貢対象外

 

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辻政信の生家をどう考えるか。

寺院がない環境でも有力農家は自宅を「念仏道場」として開放し、道場主として布教に努めた。雪深い地域では死者が出た場合にすぐに僧侶が来られないため、道場主が代役として通夜を取り仕切ることもあったという。

福井県 浄土真宗唱える施設「道場さん」の現状とは 使われる建物、地域性豊か|北陸新幹線で行こう!北陸・信越観光ナビ

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参考に読んでみたいが、ハードルが高い。図書館にはない。

近世の「道場」は、寺請制のもと「寺院」のいち檀家として掌握される下部組織であり、収入源である「宗判(宗門人別帳に押す印。「檀家役」を門徒:檀家が支払う)」「葬式執行権」「追善供養権」を寺院に独占された一方、離檀して寺院化することを妨げられていた(内証で檀家の葬式を引き受けることはあった)。

それでは、この身分制によって搾取されていただけかというと、どうもそうではない。

山間の「貧農」村落の有力農家では、免税店を開いていて、寺院に昇格することを拒んでいたようなのである。
この文章だけを読んでもよくわからない。
要は、山間では耕作面積が採れないため米の収穫高が平均より小さいが、租税が免除となる、或いは補足されない生産物があって、それで商いをしていたのだ。
中世には、道場の寺院化が進んだが、寺格を満たせるなど寺院化するためのハードルを越えられるほど資産があったにも関わらず、寺院化していない道場があったのである(もう少し詳細に言うと、兄の家と弟の家があって、弟の家では道場を寺院化した)。

この或る道場の記録は、1700年前後であって、荻原重秀と新井白石の時代のことである。織田信長の時代ではない。

そして、質の悪い貨幣と良い貨幣の価値比率を定めた撰銭令を発令した。他大名や室町幕府の出した撰銭令と比べ、信長の撰銭令の特徴は「全ての銭に価値比率を定めている」点である[390]。また、金銀の貨幣価値を定める規定[注釈 83]は革新的なものであり、江戸時代の三貨制度に続くものであると高く評価されている[391]。ただし、この 撰銭令は、かえって貨幣取引を減少させ、米を用いた取引を増加させるという結果をもたらし、期待した効果を発揮できなかったと考えられている[392]

織田信長 - Wikipedia