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ちょうど『どろろ』の時代も多元的な時代であって、一元的な社会から見ると「アナーキー」な様相で、だからこそ、「契約」という技術の発展を見たように思う。それが本当に「個人」かどうかはともかく、それは、中近世的な限界での個人主義に根差していたように見える。現在の言葉で言うと「場面で決める」、つまり、「世界」から「場面」が切り取り自由になって、相対 す主義、要は、1対1の関係の連なりが広がったかのように見えるのである。実際は知らない(が、この時代の「1対1」の関係については、指摘されていたように思う)。それでいて、権威が社会構成に必須な(社会が構成できる)要因として求められていたのが、特徴的であると思う。ルールは原理的に統合的でなければならない。中近世の日本における、フラー的な「自然法」があったようだ。そしてそれは相対化されてきていた。顕密仏教と鎌倉新仏教、同じ真宗でも高田派と本願寺(この頃はまだ東の「大谷派」と西の「本願寺派」に分かれていない。)、寺と神社、貴族と武士、銭と米、荘と保、それが「百姓」と謂う、要は「中間身分」を様々に照らしたということらしい。
加賀一向一揆は、蓮如の加賀入りによる洲崎慶覚の松根城入りから、佐々成正の松根城入り(が前田利家の切山城と対峙するまで)を考えると、視野が適度に広がるかもしれない。戦国大名に脱皮しなかったが、近江商人には脱皮していたようだ。
北陸におけるもっとも重要な戦略的拠点は、木曽義仲の昔から、加越の国境線を守る北陸道上のこの要衝だったのだ。これは越中と能登の港湾支配にも通じる。この時点で加賀が重要だったのは、より発展した能登と越中(と近畿・琵琶湖)を(海路と街道で)繋ぐ地域だったからではないのか?それが端的に富樫氏の盛衰に現れたのではないだろうか。かつてのライバルだった赤松氏には播磨が必要だった。もう一方のライバルである畠山氏には能登が必要だった。畠山氏(本家)はそもそも畿内(河内)の守護だった。
なんと、一時期、越中に幕府が来たような来なかったような話があるらしい。畠山氏(神保氏※)は越中も治めていたのだ。加賀も越後も畿内の騒乱に巻き込まれて勢力が逆転したようだ。
※神保氏は、越中、能登、紀伊の守護代を務めて、本拠は越中(射水市)にあったらしい。
「興福寺」がキーワードである。
それはそうと、かつての「悪銭王国」だった加賀が、やがて新井白石(国際法派)を生むのであるから面白い。
加賀一向一揆が戦国大名に負けたのは、そういった意味もあるのだ。
門徒が「カルバリン砲の評判を聞きつけイギリス商人から、カルバリン砲を4門とセーカー砲一門をあわせて1400両で購入」するなんて想像がつかない。
徳川家康はカルバリン砲よりスゴイ大砲を造らせていた - はじめての三国志
平和主義だからではない(「鶴来」を生んだ実悟も居たのだが、門徒が平和主義だったかはわからない。「比叡山の焼き討ち」はあまりに有名であるが、他の集団と、焼いたり焼かれたり、忙しいことこの上ない。)
門徒に必要だったのは、地域のマーケットで使える「銭」だったのだ。現在の地域商品券の人気に近いだろうか。プレミアがつくと、即時即売、或いは行列を作るのである。古くは唐の銭から遠くベトナムの銭まで、多種多様な銭を使い分けた融通無碍さに驚く(「宵越しの銭」でなかろうが、どうやって計算していたのだろう?)。米経済(米通貨)と銭経済(銭通貨)の相対化である。門徒もおそらく京都や近江の商人の経済力から発展した。それが、既存の(フラー的な)「自然」な系列、すなわち、比叡山(密教)にしろ、幕府にしろ、白山教団(神社)にしろ、それらに対して相対的に優位を誇ったのだろうが、しかし、戦国大名化しなかったのは、何か理由があったのだろう。
ともあれ、加賀一向一揆が成立した背景には、
があったようである。あと挙げるとするならば、海路の進展と土木・灌漑(その中でも、湿地開発※)の施工技術並び道具の発達であるが、知らない。
※洲崎慶覚は蓮如と別れて加越の国境線まで北上したのであるが、蓮如自身は、北潟湖の塩農業を押さえたのだろうか?「吉崎御坊」とは要は北潟湖である。
吉崎は興福寺大乗院の門跡であった経覚の所領であった
この経覚という人は、宗門は違うが、蓮如の師匠だった人で、
また、尋尊の『大乗院寺社雑事記』応仁元年6月21日条によれば、この日に尋尊を経覚が訪れて見物のために上洛すると述べている。まさに京都で応仁の乱が勃発したことが奈良にも伝わった直後の出来事であり、経覚は応仁の乱の合戦を「見物」しに行ったことになる。尋尊は経覚の行動を「不可然次第(然るべからざる次第=不適切だ)」と評している[6]。
変な人である。ここに、天台宗と浄土真宗の対立に新たな導線が引かれた。「顕密仏教」と「鎌倉新仏教」の2項対立では足りず、密教天台宗と顕教法相宗、真宗高田派と本願寺である。
ただし、15世紀には河口荘に対する大乗院の直接支配は縮小しており、大乗院の直務支配は十郷のうち兵庫郷のみに行われていた[25]。
ここに「兵庫」が出てくる。港ばかり気にしていたが、荘園の方だったのかもしれない。洲崎兵庫の「兵庫」とはこれなのだろうか?
国道27号線から国道303号線を車で2時間も走ると琵琶湖である。三方五湖の帰りに余力があると琵琶湖も見られる。
本保県ということでは、江戸時代に天領となった白山麓18村も、維新後は、本保県に帰属していたころがある。この本覚寺が、加賀一向一揆の後半の山場、大小一揆の起点となったらしい。(高田派を壊滅させ、白山教団を焼き討ち、)越前門徒と加賀門徒の争いである(白山事件の背後には興福寺法相宗と延暦寺天台宗の争いがあって、白山教団焼き打ちは、延暦寺への報復だっただろうか)。
- 経覚 - Wikipedia
「大乗院の荘園で経覚の支配下にあった越前河口庄細呂木郷(細呂宜郷とも)の代官に本願寺の末寺である和田本覚寺※の住持蓮光を任じていた。」
※ 本覚寺 (福井県永平寺町) - Wikipedia
「当初は和田道場と呼ばれていた念仏道場で真宗高田派に属していた」 - 経覚 - Wikipedia
「経覚は蓮光に管理を任せていた河口庄の吉崎へ移り再起を図る事を提案する。」 - 経覚 - Wikipedia
「蓮如は経覚の助言と蓮光の支援を受けて吉崎に吉崎御坊を建立してここで布教活動を開始する※。」
※ 和田山 本覚寺の案内
「蓮如上人が吉崎に北陸教化の中心吉崎御坊を建立されたのも、奈良興福寺領河口庄細呂宜郷の別当職や名主職を持ち荘官としても活躍していた本覚寺蓮光の力によるところが大きかったといわれております。」
蓮恵 - Wikipedia
「蓮如から信頼されていた一方(引用者註☟洲崎慶覚「扈従」)、加賀の一向宗が頻繁に繰り返した年貢未進と荘園違乱を差配していた」 - 強訴 - Wikipedia
「東寺故僧正・益信へ本覚大師の号を贈った事に抗議。益信の大師号停止」
大谷家の出身であった母方の縁から蓮如を預かったらしい。
河口荘がどれだけ大きかったかは知らないが、(三方五湖ではなく)北潟湖の吉崎に蓮如が流れて庇護されたらしい。
本覚寺は、もとは真宗高田派に属していたが、なぜか法相宗(興福寺)の系列に入り、それが本願寺の支配を受けることになるが、東の大谷派と西の本願寺派に分裂したらしい。何が原因で加賀門徒と越前門徒が揉めたのか。
洲崎右衛門入道慶覚。近江国間淵の里の郷士であり、後に松根城主となった兵庫の次男で洲崎兵庫為信と称した。吉崎の蓮如上人に帰依し慶覚の法名を与えられ、吉崎御坊創建に扈従した。
この書き方だと、慶覚の父親も兵庫で、しかし、真宗に帰依しなかった(けれど「兵庫」だった)だろうか。近江からの経緯がよくわからない。須崎(地元金沢出身)説が出る理由はここらへんにありそうだ。
近江の里間淵は滋賀県八幡市馬淵町で
琵琶湖を回るので、堅田までは意外に遠かったりする。琵琶湖は広い。
そもそも蓮如という人がややこしくて、
- 蓮如 - Wikipedia
「応永22年2月25日(1415年4月13日[3])、京都東山の生誕当時に天台宗青蓮院の末寺であった大谷本願寺(現在の知恩院塔頭崇泰院〈そうたいいん〉付近)で、本願寺第7世存如の長子として生まれる[6]。」 - 蓮如 - Wikipedia
「後に蓮如の支援者となった堅田・本福寺の法住」 - 蓮如 - Wikipedia
「本願寺と姻戚関係にあった大和・興福寺大乗院の門跡経覚[9]について修学[6]。」 -
蓮如 - Wikipedia
「青蓮院の一末寺に転落しており、青蓮院の本寺であった比叡山延暦寺からは、宗旨についても弾圧が加えられた。これに対して蓮如は延暦寺への上納金支払いを拒絶するなどした。」
「叔父で越中国瑞泉寺住持如乗(宣祐)の主張により蓮如の就任裁定となった。なお、歴代住職が後継者にあてる譲状の存如筆が現存しないことから、この裁定は如乗によるクーデターともされる。」 -
蓮如 - Wikipedia
「蓮如は祖像の親鸞御影を奉じて近江の金森、堅田、大津を転々とする。さらに蓮如と親友の間柄であった専修寺(真宗高田派)の真慧が、自己の末寺を本願寺に引き抜かれたことに抗議して絶縁した(寛正の法難)。」 -
蓮如 - Wikipedia
「延暦寺と敵対している園城寺(引用者註:天台寺門宗の総本山)の庇護を受け、園城寺子院の万徳院住持で叔父の長命阿闍梨の斡旋もあり、別所近松寺の敷地の一部を譲り受けて」 -
蓮如 - Wikipedia
※ 図説福井県史 中世16 戦国大名朝倉氏(1)
「付近の河口荘は経覚の領地で、朝倉孝景※の横領に対抗するため蓮如を下向させたとされる。」
なお、心月寺は曹洞宗、龍谷寺、小谷寺は真言宗である。朝倉孝景は「英林寺」が菩提寺であったらしいが残っていない。
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蓮如 - Wikipedia
「文明6年(1474年)、加賀守護富樫氏の内紛で富樫政親から支援の依頼を受ける。蓮如は対立する富樫幸千代が真宗高田派と組んだことを知ると、同派の圧迫から教団を維持するために政親と協力して幸千代らを滅ぼした。」
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ドイツ学派の森鴎外である。イギリス学派の夏目漱石との比較であるが、或いは
古代の「ヒト」から「トオ(ウ)」までの数詞の発展や、「白黒青赤」の4原色への発展を考える時にも(特に、灰と関係する、アオとアカ。そういった意味では、歴史上珍重された染料としての赤の貴種性とも若干異なるニュアンスを帯びると思う。これは統一的な自然観=世界観と結びついた構造的な把握であるように思う。だから、大陸伝来思想の影響が濃いのではないかと思うが—いや逆に日本の先進性だったのかもしれないが、縄文時代の土器土偶の「十進法」にしても、朝鮮半島に類似の痕跡があったかどうか—、何しろ文字が発達する以前の話である。)、この”Ö”と”O”の区別がつくと面白いのだろうが、よくわからない。
(Kyoto University Research Information Repository: 「認識論」という語の起源について)
ホッブスとロックでは、なぜ、ロックばかり賞賛されるのか不思議だったが、カントから理解すると「なるほど」となるらしい。
「認識論」である。
やはり、(戦前の)「近代」は実はカントが中心であって、「カントから」どう考えるかというのが隠れた鍵だったのではないか。そのカントが行ったもっとも重要な仕事がデカルト批判だったと思う。要は、神学への「批判」である。(イスラム神学にも)デカルトにも(脳から考える器質的、還元主義的な)「心理学」はあったが(だから、デカルト思想において心身二元論が鍵で、だから、「心身合一」に向かう。)、カントの「認識論」からするとそうではなかったらしい。ホッブスは数学者ウォリスと論争したように、(背後にあっただろう神学的な信念としての)幾何的世界から抜け出なかった。