シンどろろ ㉗

そうなれば、当然黙っていないのが、顕密仏教勢力、とりわけ延暦寺である。

谷口雄太. 分裂と統合で読む日本中世史 (pp.). 山川出版社. Kindle 版. 

戦国期の浄土真宗日蓮宗の台頭に「顕密仏教勢力」就中比叡山が黙っていなかったと続くのであるが、そもそも

このような顕密「八宗」(南都「六宗」+真言・天台「二宗」)の仏教は、それぞれ分立しつつも、密教を中心に互いに共存しており、古代以来、巨大な勢力を誇っていた。

谷口雄太. 分裂と統合で読む日本中世史 (pp.120-121). 山川出版社. Kindle 版. 

が成立していたのかについては、Wikipediaを信じる限り、「?」が付くかもしれない。
もちろん、谷口は学術的な考察を資料に基づいて行っているので、出鱈目を言っているとは信じがたい。

あの比叡山延暦寺でさえ、興福寺の末寺になるよう訴えを出されたことがありました。

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ただ、蓮如という人の人生、というか、新興勢力だからこそ、既存勢力の影響を受けている様を見るにつけ、そう単純ではない、と思えるのだが、いかがか。

蓮如が、越前と加賀の国境線で、興福寺の影響下にあって、延暦寺と対立してゆく(そもそも延暦寺興福寺は因縁があった―白山事件)一方で、その弟子の洲崎慶覚は、越後と加賀の国境線で、動き始める。

大野荘(石川)(おおののしょう)とは? 意味や使い方 - コトバンク

長崎氏 - Wikipedia

吉藤専光寺

仏教知識 - 覚如①

真宗高田派 - Wikipedia

平山善均(へいざん ぜんきん)とは? 意味や使い方 - コトバンク

要は、蓮如も洲崎慶覚も、押領を繰り返していたのだ。
そして、それには陰で、実のところ、港湾と流通に強い商人たちとも関係して、そこで自治が生まれた、ということのようだ。

山城臨川寺臨済宗)領だった大野荘に押領を繰り返していたのが洲崎慶覚で、入部を繰り返していたのが富樫氏だったか。地頭職が北条得宗だったところ、建武の新政で、臨川寺に替わったということなのか、次の説明だと違うことが書かれている。

解説ページ

建武政権崩壊の後、臨川寺建武3年(引用者註1336年)8月2日足利尊氏御教書によって領家職を安堵されたのに引き続いて,同年8月30日の足利尊氏寄進状によって甲斐の国牧荘東方と交換の形で,大野荘地頭職も入手し,一円支配を達成する。」ということであるが、「白山宮加賀馬場や守護による領有権の侵犯が反復されて」いたらしい。

この頃は、加賀馬場は、比叡山の末寺となっていたはずで、「南禅寺事件」が起きたのは、その後の1367年からだったか。

本朝高僧伝 総目 , 卍元師蛮 撰 , 〔明治--〕 - 国立国会図書館デジタルコレクション

善均の師匠が

正中2年(1325年)に後醍醐天皇の要望により上洛[注釈 3]。勅願禅寺である南禅寺の住持となる。

夢窓疎石 - Wikipedia

である。

臨川寺建武政権下で地頭職を獲得し,1408年までには山城醍醐寺領得蔵(とくら)保(荘)・伊勢神宮領富永厨(とみながのみくりや)を抱摂して新たな一円寺領の大野荘を形成。

大野荘(石川)(おおののしょう)とは? 意味や使い方 - コトバンク

建武政権」ということで、「角川」の記述と異なるが、それはさておき。
醍醐寺

874年聖宝(しょうぼう)が上醍醐に開創,907年醍醐天皇のとき勅願寺として伽藍を整備,その後山下に釈迦堂をはじめとして下醍醐の堂塔が造立され真言宗小野流の中心として栄えた。

醍醐寺(だいごじ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

こちらの方が詳しいだろうか、

その圧倒的な財力によって

醍醐寺 - Wikipedia

建武政権」は

建武の新政を開始した後醍醐天皇に招かれて臨川寺の開山を行った。この時の勅使役が足利尊氏であり、以後、尊氏も疎石を師と仰いだ[3]

夢窓疎石 - Wikipedia

こちらだったらしい。夢想疎石と呼ばれた人が死ぬのが1351年である。

また、恩賞地に関する幕府追加法が増加し、恩賞地を複数の武士に充行った場合や寺社への寄進地と武士の恩賞地が重複した場合の対処を定めた。亀田俊和によると、こうした恩賞宛行はかなりの武士を満足させた[14]

観応の擾乱 - Wikipedia

ちょうどこのとき、幕府の内紛が起こった。尊氏は勝利したのだが、その後早逝してしまう。それで第三代義満のために「管領」が置かれることと成った。

応安元年(1368年)には公家や寺社の荘園を保護する半済令(応安大法)を施行する。

細川頼之 - Wikipedia

細川頼之は第二代管領

そのような中で室町幕府が擁する北朝及び有力権門である摂関家や寺社との連携を強化することでこの危機を乗り切ろうとした。

寺社本所領事 - Wikipedia

これが1368年であるから、この前年に「南禅寺事件」が始まったのであった。
最終的には南禅寺新造の楼門の破却と礎石の撤去を幕府が行ったということである(谷口雄太『分裂と統合で読む日本中世史 』)。比叡山南禅寺に勝利したと理解してよいだろうか。これが南禅寺にとってどれほどの意味をもったかわからないが、南禅寺と縁が深い臨川寺の大野荘は上で見た通りである。

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このまますべてをこの人に教わりたい。

日本古代氏族人名辞典

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近江商人は琵琶湖だったが、日蓮宗は「備前国牛窓湊」の石原氏というから

愛媛の石原氏のことが知りたい。ちなみに、日隆は富山の人だったりする。

日隆 (本門法華宗) - Wikipedia

当時は畠山氏の代官神保氏が治めていただろうか。

桃井直詮 - Wikipedia

 

荘園のことがよくわからない。