シンどろろ ⑳

ようやく、能登戦国大名の畠山氏が生まれた。科学なき時代に、文物と統治と経済が不分明だから、幕府系、神寺系、新興勢力が入り乱れていたらしい。

しかも、どこもそんな感じだから、あっちで騒動が起きてこっちの負担が強いられると、こっちの言うことをきかないってことを繰り返してゆく中で、「クニ」単位で収める戦国大名が生まれて来たらしい。

「百姓」というのは、経済力をつけた地場豪族を代表とする集団のことらしい。
その代表格が宮越あたりで勢力を拡大した洲崎慶覚で、宮越といったら、北前船の港ともなったし、

慶覚寺 (金沢市) - Wikipedia

要は、

古代においては、「大野湊」として『白山禅頂私記』の伝説に登場する。その後戦国時代から江戸時代初期にかけて近接する犀川河口の宮腰(現在の金沢市金石地区)の繁栄に押されていたが、北前航路の隆盛により宮腰とともに金沢の外港としての地位を築いた[11][12]

金沢港 - Wikipedia

このとき、

浅野川 - Wikipedia

大野川に流れて、日本海に到達する。

北前舟|物資と文化を運んだ海の大動脈、北前航路:JR西日本

犀川 (石川県) - Wikipedia

北陸道、白山大道、浅野川という物流を抑えることで、新興勢力が発達したらしい。

"Hyakusho" were anarchists in Japan during the Middle Ages.
洲崎慶覚は、通説では、「湖賊」(琵琶湖の「海賊」。ここら辺の話が上掲の「第2話山賊・海賊の話」にある。)と言われる、近畿地方の出自を持つとのことであるが、「洲崎」と名乗ることから金沢の「須崎」から出たのではないかとも言われているらしい。
「百姓ノ持チタル国」の「百姓」とはこの時代、例えば、こういう人だったのである。これを言い出したのが、なにしろ、「剣」の清沢願得寺で住職を務めた実悟なのである。この「剣」が不動明王の剣なのかは知らないが、あまりに騒乱が絶えないので、いつの頃か、縁起の良い「鶴来」に替えたと言われている。


「百姓ノ持チタル国」と最初に言ったのは、実悟。
真宗全書 続編 第18巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

蓮如上人は寛正年間(1460〜66)に比叡山の荒法師に本願寺が破却されて、近江の堅田から日野に逃れ、この村人の案内で山道を塩津までのぼり、その山中の炭小屋で一泊して、根の平峠から伊勢へと教化に向かわれたとされる。

滋賀県東近江市 甲津畑

「近江の堅田」とは、

中世以来、堅田では琵琶湖に突き出した浮御堂というお堂が土地のシンボルになっており、浮御堂越しに見る琵琶湖の夕景は昔から「近江八景」の一つに数えられている(現在の堂は一九三七年再建)。では、なぜこの風光明媚な堅田が海賊の一大根拠地になってしまったのだろうか。
清水克行 (2021-06-17). 室町は今日もハードボイルド―日本中世のアナーキーな世界― (Kindle の位置No.190-193). 新潮社. Kindle 版.

浮御堂(満月寺)|琵琶湖に浮かぶ仏堂( 滋賀) ★☆☆ - かべごえ旅行絵巻

琵琶湖は縦に延びた日本最大の湖で、中世では北陸から京都に向かう物資は、みな琵琶湖上の水運を利用して運搬された。

清水克行 (2021-06-17). 室町は今日もハードボイルド―日本中世のアナーキーな世界― (Kindle の位置No.194-195). 新潮社. Kindle 版.

堅田自体は小さな町ながら、この立地を活かして、当時「湖九十九浦知行」といわれ、琵琶湖全域にわたる支配権を保持していた。

清水克行 (2021-06-17). 室町は今日もハードボイルド―日本中世のアナーキーな世界― (Kindle の位置No.200-201). 新潮社. Kindle 版.

洲崎慶覚の金沢での「働きぶり」が目に浮かぶようである。
面白いのは、こちらの「百姓ノ持地」は信長を助けている。

信長は、越前攻めで浅井長政に背かれ急遽朽木越えで帰京、岐阜への帰郷の途中、浅井勢に中山道を閉ざされたが、甲津畑の速水勘解由らの援助を得て千種越えを行った。

滋賀県東近江市 甲津畑

真宗全書 続編 第18巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション

ただ、「力」を付けるだけでは治まらない。文物は必須なのである。
また反対に、「進めば極楽、退けば地獄」があまりに有名だが、どれだけ優勢でも、逃げる時はあっさり逃げる。「理」=「文」とも限らなかったようだ。ここら辺の、中世から近世へ至る、合理性である。

要は、ここいらは経済的に比較的裕福で、人心も安定していたから、新興勢力が拮抗していてそれが「百姓ノ持チタル」状況になったらしい。ただのバランスである。
その中から、畠山氏が、本国の河内がやられたことが影響したのか、能登戦国大名として頭角を現し、何をやったかというと、七尾城を造り、七尾湾を整備し、金山を開発したのであった。

七尾城は、ただの山城ではなく、山脈づたいの城で、平城の小田原城とも違うし、大阪城とも違う。山城から平城に至って、平面に展開する以前の、中途の城のようなイメージだろうか?同時に、このとき、加賀の平面を「難攻不落」にしていたのは、手取川松任城)、梯川(小松城)なんだね。そういった意味で、加賀の一向一揆が「手取川の戦い」後に急展開してゆくのは、興味深い。


 硝石や鉛の輸入というと、ついポルトガル南蛮貿易を思い浮かべてしまうが、「量的には中国人が運んでいる物資のほうが、ずっと多いはず」(上田氏)という。中国人は普通に日本社会に入り込んでいるので、取り立てて記録されていないようなのだ。

「関ヶ原」で大量消費の「弾薬」はどこから来た? 海から見る戦国日本の新しい姿(現代ビジネス) - Yahoo!ニュース

・・・。

熊本県の田中城跡(1587年、秀吉軍と一揆軍との戦)から出土した鉛玉56個の鉛同位体比から、日本産48%、中国産15%、そして37%が東アジア(中国、朝鮮半島、日本)ではない産地(N領域)ということが判った。大分市の大友遺跡(1587年、大友氏と島津軍との戦)ではキリスト教関連資料すべてが中国とN領域材料であり、一般資料でもその70%以上が外国産材料であった。長崎県原城跡(1637年、幕府軍一揆軍との戦)から出土した鉄砲玉の約40%は外国産材料であった。

鉛同位体比から見た日本の戦国時代における鉛の流通

アユタヤ王朝 - Wikipedia

タイ・ソントー鉱山産らしい。

 

 

okimu.jp

どうしても、趨勢としては、北方の国は戦力的に劣後せざるを得なかっただろうか?
越後の虎も甲斐の龍も、「百姓ノ持チタル国」も、戦国の仇花だっただろうか?

戦国時代を終わらせたのはぶっちゃけ鉄砲ではなかったって本当? - ほのぼの日本史

こうであるならば、畠山義総が、七尾湾と富山湾の流通を支配し、七尾城を築城し、宝達金山の開発を行ったのは、戦国大名として、時代を画すことだっただろうか。

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