シンどろろ ㉑

「(土地)開発能力」ということでは、古代は古墳、中近世は城だったんだよな。

前方後円墳は、掘るところから始まるらしい。山城の造営と比べてどうか。

それはそうと、

加能郷土辞彙, 日置謙 編 , 昭和17 - 国立国会図書館デジタルコレクション

謙信に勝ったのか?本当だろうか。

『蔭涼軒日録』を調べたい。 | レファレンス協同データベース

大日本仏教全書 134 , 仏書刊行会 編 , 明治45-大正11 - 国立国会図書館デジタルコレクション

 

 

5冊購入。やはり呉座さんを無視できない。本当は、『日本中世の領主一揆』が読みたい。高価だし、まずは「入門書」(というか、専門的には、おそらくそれ以前の「案内本」)。

それでマルクス主義の影響を受けた学問への批判がある。その歴史学の変遷を説明しているのがこの本らしい。

こういう書き方は、法学の教科書で見慣れていて、親しみやすいし、「紙のプロレス」世代だからか、こういう学説史というか、何が「問題」としてあって、どう向き合っているかを説明するのは、単純に面白い。マルクス史観への不満はもはや一般的なのか、『荘園』にも見られる。

ただ、最近は、「中国史観」に辟易とすることがある。
最初に気づいたのは、別の本だったが、資料に足りない事実は、断ったうえで想像で補っている。九州で研究されていて、学術的な環境もよく、専門家としての矜持を高く持って、実際期待された方だったようだが、「想像」よりも「科学」を優先して欲しかった。
それから「元寇」の説明の「嘘」が次々に暴かれるなど、学術周辺の「中華神話」の一端は崩れたようで、なかなか根深い。

  1. 元は、ベトナムを攻めたが、やはり勝てなかった
  2. 戦国では、タイからの鉛の輸入が、中国の2倍あった
  3. 中国から朝鮮半島経由で九州北部、中国南部から九州沿岸を回って四国、渤海から日本海を渡る、山靼交易によってサハリン経由で北海道の4つの海を越えるルートの内、後の2つがほとんど無視されている

つまり、中国或いは中国と朝鮮半島だけに焦点を絞って考えすぎであるように思う。
特に、戦国時代を考える時にタイの影響を無視するのは、もはや「政治的」と言ってよいと思う。
鉄砲は世界を変えなかったのはすでに見たが、大砲は世界を変えた。
戦国史で言ったら、大坂冬の陣である。家康が朱印船貿易を始めたのは幕府を開いた翌年の1604年で、大坂冬の陣は1614年である。1582年に鳥越城が落城し、一向一揆は終わった。信長に敗れたのだが、信長は堺を屈服させ、また琵琶湖を支配した。秀吉は堺を放棄して、博多を再整備した。
信長はかの鉄甲船に大砲を3門載せたようだが、ポルトガルの仏狼機砲を使ったのは、秀吉ではなかった。家康はイギリス製ガルバリン砲を揃えた。家康はどこから大砲を陸揚げしたのだろう?

堺 - Wikipedia

博多 - Wikipedia

大湊 (伊勢市) - Wikipedia

 

【徳川家康は大砲マニア】難攻不落の大阪城は大砲で落ちたって本当? - はじめての三国志

徳川家康はカルバリン砲よりスゴイ大砲を造らせていた - はじめての三国志

「ドタマぶち抜いたれ」と家康が行ったかどうかは知らないが、相当短気な人だったらしい。

大阪市立図書館 資料詳細 | Detailより)

(比較参照)今週の今昔館: 今週の今昔館(223) 松之下・京橋・備前島 20200708

スペインの無敵艦隊を破ったイギリスは別に世界を制覇したわけではないし、スペインの優勢がその敗北で終わったわけでもない。それでも東インド会社を通じて大砲は入って来た。

23.大砲の歴史と鋳鉄

大陸の大砲は大坂冬の陣で使われ、日本の火縄銃はロシアを蹴散らしたのだ。

【コラム】ロシアも制圧した朝鮮鳥銃部隊、なぜ消えたのか(1) | Joongang Ilbo | 中央日報

需要と供給がマッチする。戦国でもこの法則は大事だったのだ。

 これらを地図に落とすと、前近代日本における日本海側の海運の重要性がよくわかる。こうした日本海側が、どこか停滞的な「裏日本」などとして位置づけられていくのは、近代、とりわけ二十世紀以降のことである(4)

谷口雄太. 分裂と統合で読む日本中世史  (pp.71-72). 山川出版社. Kindle 版.

4) 阿部恒久『「裏日本」はいかにつくられたか』(日本経済評論社、一九九七年)、古厩忠夫『裏日本─近代日本を問いなおす』(岩波新書、一九九七年)

十三湊(青森県五所川原市)、越前国三国湊(福井県坂井市加賀国本吉湊(石川県白山市能登国輪島湊(石川県輪島市越中国岩瀬湊(富山県富山市越後国今町湊(新潟県上越市出羽国土崎湊(秋田県秋田市)の7湊のうち、5湊が北陸で、そのうち3つを前田家が治め、1つが前田家と関係がある。

三国町の町並み

本多氏 - Wikipedia

福井藩 - Wikipedia

浮宝随想 , 住田正一 , 昭12 - 国立国会図書館デジタルコレクション

しかし、明治の5港に選ばれたのは、あと1つの新潟であった。どういう意味合いがあっただろうか?

新潟港の歴史 新潟市

誰が書いたのだろうと思ったら、

住田正一|人物特集|鈴木商店のあゆみ|鈴木商店記念館

愛媛県人だったか。なら、仕方がない。御見それいたしました。

大輪田泊 - Wikipedia

堺にその地位を譲るが、兵庫津は日宋貿易、兵庫湊は日明貿易で栄えた。

司馬遼太郎が『街道を行く(3)』で、「加賀百万石は日和見藩だったために金沢が城下であるのに金沢県とはならず石川という県内の小さな地名をさがし出してこれを県名とした」と書いているのだが、加賀藩は当初は「金沢県」と名付けられており、司馬の指摘は正しくない。県庁が金沢に置けない事情があったために県名が「石川県」に変更されたと理解すべきなのである。

金沢県を石川県に改称し県庁を金沢から美川町に移した事情~~北陸1 | 歴史逍遥『しばやんの日々』

司馬遼太郎というところが実は味噌で、五木寛之と並んで、加賀一向一揆を「共和国」と評価したらしい。民衆史が全盛の時代に「一流の受容力を持ちながらも積極的な創造力に欠ける、それが近世の『百万石文化』の特性であった」(浅香年木『百万石の光と影』)とは褒め言葉ではないだろう。

金沢城 - Wikipedia

浅香は金沢城で学んだ(金沢大学法文学部卒業)。


ともあれ、この美川町加賀国本吉湊である。歴史というのは難しい。

鎌倉時代の廻船式目に「三津七湊」があげられている。全国の「三津七湊」の一つとしてこの本吉湊が数えられていた。それ以前にはこの辺りに比樂湊があり、物資はここから敦賀湊で陸揚げされ馬で塩津へ、湖上船で大津へそして都へ運び込まれた。本吉湊は江戸期に最盛期を向かえ加賀海岸を代表する大湊となった。加賀藩の経済金融の中心地であった。年間1500隻の船が出入れし、米蔵が建ち並び廻船問屋や商人で活気があった。

日本の津シリーズⅣ  ~北前船を訪ねて~ 日本一心のこもった「おかえり!」 加賀の本吉湊

「石川という県内の小さな地名」というのは 酷い出鱈目 、、、、、 と言ってよいと思う。

石川県 - Wikipedia

石川郡 (石川県) - Wikipedia

富樫氏 - Wikipedia

「金澤県石川郡金澤〇〇町」という呼称だっただろうか。
「石川県庁を(石川県)加賀国石川郡金沢に置く」と太政官令で言っている。

さて、北陸から見ると、世界史のスケールで日本史が見られるという「夢」のような話である。「リベラル史観」「中国史観」「中央史観」にうんざりしているので飛びついた。このほかにも、「マルクス史観」後の「西洋史観」もあるらしい。

これには文学に対する不満も入って来るが、もともと「四季」も「昼夜」も政治思想である。世界中に四季はあるのに、なぜ日本人はさも「日本にだけ「四季」がある」と思っているのか?それが政治思想だからである。その「一般教書」がかの『万葉集』であって、『源氏物語』も『枕草子』も半ば 近代的に 、、、、 誤解されている。
「昼夜」に関しても、もともとモモンガを食っていた日本人は狩りのために夜だって活動していたのだ。それがいつからか、夜を異様に恐れるようになった(それ以前に夜を恐れていたかは知らない)。

古代は、というより近代以前は、いろいろといっしょくたになっていて当たり前なのに、その政治的側面を、近代以降は見落としやすいのだろうと思う。

「四季」も「昼夜」も政治思想である、乃至、ある時期から政治思想となったと考えて差し支えないと思う。

一揆の話に戻ると、国人一揆(領主一揆)、国一揆があって、一向一揆がある。

 国人一揆(こくじんいっき)とは? 意味や使い方 - コトバンク

悪党(あくとう)とは? 意味や使い方 - コトバンク

強訴(ごうそ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

このとき、一揆の形式に  があるが、それは「神人」として「悪党」の価値を転換することだったのか?このような、強訴と一揆の交叉現象、或いは仏教と神道の交叉現象があったのか?


5冊を読み終わった後に、さらに読み進めたい候補。