新井白石と平沼騏一郎

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11月15日は着物の日。 加賀友禅作家 毎田健治氏 着物研究会にて | 着付師・着付け教室・着物相談のキモノワールドライフ|神奈川県相模原市

文中に「前田氏」とあるのは、別に間違いじゃないのかもしれない。
もちろん、このようなすごい方を直接存じ上げているわけでないので、いい加減なことを言っていると怒られそうですが。

さて、前田のお殿様、前田利為だが、利為はもちろん東京で生まれているのだが、群馬県にあった七日市藩の第12代藩主前田利昭の子で、この前田家は、大阪の陣で徳川側についた際の功績が認められて1万石与えられたときできたようだ。その初代が前田利家5男の前田利孝である。

前田氏 - Wikipedia

以来、群馬とは縁があるらしい。
新井白石も群馬出身だが、師匠を通じて加賀藩へ士官の話があった。

新井白石 - Wikipedia

その師匠の木下順庵であるが、この人は京都の出身らしいが、それはいいとして、弟子に室鳩巣がいる。

室鳩巣 - Wikipedia

室鳩巣は東京生まれだが、もともと加賀藩に仕えていたようで、前田綱紀に言われて木下順庵の門下に入った。そこに新井白石が居て、新井白石に推挙されて江戸幕府に入った。

赤穂義人録

赤穂義人録

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編者の井上 泰至氏の経歴が興味深くて、防衛大学校の教授だったらしい。

青地兼山(鳩巣の門人)の『兼山秘策』によれば、新井白石対馬藩士との話で四十七士に関心を持った朝鮮通信使のために漢文体による赤穂事件の史料を求めていた対馬藩家老・平田直右衛門の要請を受けて、鳩巣が通信使に『義人録』の写本を与えることになり、鳩巣は兼山への書状で「四十七士に対して、私もずいぶん奉公したものです」と報告している

赤穂事件 - Wikipedia

なんとも興味深い。

さて、何が言いたいか。
平沼騏一郎である。

平沼ははじめ箕作秋坪について学んだ。菊池大麓の父であり、緒方洪庵の弟子である。
一方で杉田玄白の弟子の宇田川玄真の弟子の箕作 阮甫の弟子らしい。箕作 阮甫はペリーの持参した国書を翻訳した人である。

箕作秋坪 - Wikipedia

箕作秋坪の下には、東郷平八郎原敬が居たらしい。
平沼騏一郎の養子となったのが、中川恭四郎で、中川恭四郎は中川友次郎の子である。金沢出身の内務官僚で、群馬県知事(官選)、台湾総督府財務局長を歴任した。

中川家(中川友次郎の子孫・家系図) | 閨閥学

その後、前田侯爵家総務、汽車製造会社監査役などを務めた

群馬県人名大事典』374頁。

中川友次郎 - Wikipedia

中川友次郎の養父が中川長吉で、中川長吉は能登出身でどこかわからないが群長を務めて、金沢電気瓦斯初代社長に就任したらしい。

加えて社長の中川長吉の関係で能登銀行から一部資金を借り入れていたが、同銀行は1900・1901年の不況で深刻な経営危機に陥った[5]。こうした環境悪化の対策として、金沢電気では旧加賀藩主前田侯爵家へ救済を求める[5]。要請に応え前田家は1901年に金沢電気への出資を始め、翌1902年には小池靖一を送り込んだ

金沢電気瓦斯 - Wikipedia

二代目社長は加賀藩重臣長氏の出で、長氏とは、畠山七人衆長続連の長氏である。長続連は七尾城の攻防の折の内紛で殺されてしまったが、子の長連龍は生き残り、織田信長に仕えた後、前田利家の家臣となり、朝鮮出兵にも参陣したらしい。

長連龍 - Wikipedia

それにしても篤志家とは前田のお殿様のことで、第四高等学校が金沢に来たのも、前田のお殿様が金を出したからである。


話は変わるが、能登には舳倉島があって、これが不思議な島である。

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白山神社(輪島市名舟町ト64乙) - 石川県神社庁

宮司は中川さんらしい。

三井寺>連載>新羅神社考>石川県の新羅神社(1)
三井寺>連載>新羅神社考>石川県の新羅神社(2)

新羅系神社」とは学術的に考証されたのだろうか。

伝どんどん山出土の海獣葡萄鏡について - 國學院大學

舳倉島の奥津比咩神社には奈良時代海獣葡萄鏡が伝えられているということである。
対馬にもある。

日本にも多数持込まれ,正倉院伝来の鏡,法隆寺五重塔心礎発掘の鏡などが著名

海獣葡萄鏡とは - コトバンク

ここで、聖徳太子に繋がる。