違う戦争を戦っていた

 

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石原莞爾が陸大(30期)を2番で卒業したとき、「卒業論文は、北越戦争を作戦的に研究した『長岡藩士河井継之助』であった」(石原莞爾 - Wikipedia)ということである。

このとき、不思議なのは、果たして河合継之助は軍事的評価、、、、、に値するのか、ということである。

金沢市立玉川図書館 近世史料館『加賀藩と北越戦争』(平成24年)
展示案内−金沢市立玉川図書館近世史料館

加賀藩から見た北越戦争である。
ここで気になるのが、

  1. 山縣有朋は有能な参謀だったか
  2. 過少な兵で敢闘するのを軍事的に評価すべきか

である。1に関しては、

山縣有朋 - Wikipedia
参謀 - Wikipedia

考えさせられるものがある。資料にある「参謀」とは山縣有朋かその周辺の者か。

2に関しては、ほかに立見尚文という名将が居る。

立見尚文 - Wikipedia

朝日山山頂に陣取る立見鑑三郎率いる桑名藩兵と長岡藩兵に敗れ、時山は戦死した。その後、両軍とも攻め手を欠き、砲撃戦に終始する。

北越戦争 - Wikipedia

地の利に恵まれた立見が寡兵を効率よく展開して、攻撃を防いで、殊勲を上げたハナシである。
それで名を上げた立見は、日露戦争に招集された。

退却する必要性はなかった。また、なぜ退却したのかは不明である。

黒溝台会戦 - Wikipedia

ロシアが「負け」を認めたことは評価すべきだが、それが立見の評価となるだろうか?
ここが難しいところで、北越戦争は、近代的な銃火器も見られたが、本格的な近代戦ではない。

これがそのまま石原の評価に重なるのでなかろうか。
石原は、正規軍で指揮したことがあっただろうか。山下奉文と2期しか違わない。
そういうことだろうと思う。
戦争は継戦の長い営みであって、個々の目標の総合的な到達である。
花火でも「一撃」でもない。
「皇国の興廃」に曲げてでも請われる人物でなかった。
それだけで十分である。

同期には、阿南惟幾や(皇道派に属して二・二六事件で処分され、不遇をかこつうちに早逝してしまったが)鈴木率道が居たのである。

阿南惟幾 - Wikipedia
鈴木率道 - Wikipedia


司令官と指揮官、参謀と幕僚の違いを踏まえないと、混乱する。
山縣有朋は、北越戦争では、奇兵隊を指揮しつつ、各藩から寄せ集めた官軍の総指揮を執る高倉 永祜の参謀として従軍したのだろうか。

ただ、高倉は、

高倉永祜 - Wikipedia

お公家さんなので、山縣が実質的に総指揮を執ったということだろうか?

 

👇参謀と指揮官の混乱についても触れている。


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