幽窓無歴日

 


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答人 
 太上隠者

偶來松樹下
高枕石頭眠
山中無暦日
寒盡不知年

たまたまこんなところへ来たが、ゆっくり寝られたよ。 暦のないところで、いつ春になったかもわからなかった。 (じゃあ、そろそろ行くね) といった感じの唐詩だそうです。 寡黙を貫き通した自己を太上隠者(隠者の中の隠者)に準えるのは、奢りではなく、洒落っ気でしょうね。 人柄がしのばれます。

太上隠者:答人 - Web漢文大系

唐詩選画本 答人 太上隠者 蔵書 - 新古今和歌集の部屋

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漢詩篇(一)-武市半平太の漢詩

「幽窓」と言えば学問のことだったようで、徳富蘇峰は熊本出身だから、大分に生まれて熊本地方幼年学校に進んだ梅津も聞いたことはあったろうが、唐詩選のイメージの方がしっくりとくる。


ここに中西輝政という人物が居る。

私の感想では、百田尚樹の師匠筋にあたる。

というよりむしろ、百田尚樹は、いわば「蓑田胸喜」で、中西輝政治が「上杉慎吉」くらいの話だが、これは関係のことで、百田直樹は、蓑田胸喜と舌鋒の鋭さが互角であっても「批判本」ばかりをものにした蓑田と違って、完結したひとつの物語を提示できている。

この意味で、中西輝政が師匠筋であると言えるのは、この学者が「事実」を騙った物語の語り部に過ぎないからであり、学者でない、庶民的な百田は、その経歴が活きて、より広範な人に届く機微を心得、伝達の方法論を持っていたのだろうと思う。

百田尚樹が強面なのはいかがかと思うが、彼は学者でない(というか、正規の学問上の訓練を受けていない、好事家としての「郷土史家」に、政治的傾向に関わらず、彼のような「俺流」の態度の人は別に珍しくない。地道な郷土資料の発掘が正規の学問へ好い影響を与えることもあるので、「下手の物好き」と「好きこそものの上手なれ」を厳密に区別する意義をどこまで認めるべきか、悩ましい問題である。また、学者が商業的な「プロ」を兼ねる場合、すそ野の広がりも無視できない―から呉座は啓蒙に励むのだろうが、いかがなものかという側面が隠せない)。
学者なのは中西輝政であって、その方法論から言って、呉座雄一の論敵でしかるべきだが、そこら辺はどうなっているのだろうと思う次第で、呉座の「論争仲間」らの、端から見て、男同士の奇妙な連帯には、歴史学と考古学の方法論的な違いについて(考古学、或いは、科学主義からの、歴史学批判乃至論理主義への批判は、原理的に在り得る。そういった意味で、歴史学者は、科学的実在論への考察を「門外漢」としてほとんど試みていないようにさえ見える―これはもちろん一笑に付されるだろうが、そういうことではなく、「論理主義」が絶対に許さない闘争として始まった「血なまぐさい」経歴のことである。彼らの闘争は、政治的傾向で色分けされる、物語至上主義が許せないだけであるように見える。「絶対に許さない」とはその程度の中途半端なことではないのだ。だから、論理主義は―科学革命を派生したにもかからわず、遂には―科学主義とも鋭く対立する。そういった便宜を許さない態度である。ただし、多様な科学の在り方とも関係するが、ここで「便宜」とは、反正統であるので、独立した体系の間に自ずと生ずる批判のことである。歴史学と考古学を分別なく語るのは「おかしい」ということである。それ自体が「物語」の―歴史学にとって考古学は正統に論じられない経験的な事実であるので、この限りでの帰納法を採用しており―裏からの導入である。歴史学、考古学がそれぞれ信用を保っているので覆い隠されるが、ただの匙加減になっている。ともすれば同類相食む状況での、力関係に過ぎない。だから、端から見ると奇妙にしか見えない「友情」が強調されるのかと訝しく思う。)、いろいろと考えさせられるものがある。

このようなものを見て思うのは、反対に、「陸軍主流派」とは何か、であって、それは端的に謂うと、「児玉源太郎」的なことである。それは梅津に流れるが、決して石原莞爾ではない。いや背景から言うと、平沼騏一郎であって、石原は、とてもじゃないが、「希代の戦略家」と言える人物ではなかった(石原が愚鈍だったかに関わらず、田舎者だったのだ。そして―瞬間的に中枢に食い込み、個人的な信奉が寄せられる向きも一部にあったが―主流派として「中央」に立つことはなかった。そういった意味で、軍閥に先立ってあった学閥における美濃部達吉が参考となる。学「閥」を超えられない宿命を担ってしまった。それは構造問題だった。これは与党と野党の関係にも近いが、基本的に、特に情報と行政人事のコストに関して、与党は有利なのである。ところが、状況は一様でないので、具体的な問題を目の前にして、統合的な乗り越えが常に図られるのみである。昔から言う、天の時、地の利、人の和である。石原はワンチャンスに賭けたと言ってよいが、「与党」の梅津には、「野党」の石原のことが、手のひらの皺ほどによく見えていたのだ)。

天皇を「罰する」」という発想は、「罰する」言葉尻がどうであれ(「排する」と言う場合もある。)、実は特段奇矯と言うほどのことはない。北条氏がどう言ったかわすれたが、上杉慎吉は、ドイツ遊学前にではなく遊学後、すなわち転向後に、明言しているクドクドとここで言っている「天皇」を求める機序の表と裏の話であるから、彼らが直ちに「天皇制」を排除しているとは言えないし、「天皇」が居なくなれば直ちにうまく行くという話でもない。奥崎氏にとっては、この映画の物語は、本当に「古い話」で興味のない話柄だったのではないかと思う。「戦後に克服したのに明治以来の原初的な「天皇論」をぶつ必要ってあった?」ということで、パチンコというところが、冗談性を現している―もちろん、冗談で済まなかったが。これは本質的に「戦後生まれ」の神話である。だから、奥崎氏にしてみれば、上官に対してより実際的な犯行計画を持ったのであると思う。彼ら兵士にとって「戦争犯罪」とは、実際に身を呈するような、具体的な問題だったと思う。反対に「戦後生まれ」にとっては、観念の遊びである。実際のことに興味がある奥崎氏が乗り気になれなかった理由である)。


根底にあるのは、新井白石を祖に持つ「大日本主義」(「国際法」を基準とした対外経済派。いわば「より一元的な対内国際法」主義)、を祖持つ「小日本主義」(「国内法」を基準とした国内経済派。いわば「対外国内法」主義乃至「国内法中心の便宜的二元主義」)で、平沼は明確に前者でありかつそれまでの反動であって、一木喜徳郎、渋沢栄一といった「近世思想家」らの社会支配を覆した純粋に近代的な動きだったのだ。

「民主主義」は多様なチャンネルを持って実現していたということであり、巷間言われるような「明治憲法の欠陥」は、多様なチャンネルに先立ってあった学閥の問題とも関係するが、イギリスの初代ウェリントン公アーサー・ウェルズリー後のイギリスの政治的混乱に準えられる。イギリスと違うのは、明治維新以来の軍閥が「地方閥」として政府内部に浸透していたことであるのではないかと思う。日本の政治状況は、より複層的だったのだ。それが多様なチャンネルを通じて(具体的には、原敬の「我田引鉄」の一方であった在郷軍人会の成立による、軍の「民主的」勢力の拡大である。)

※日本の「民主化」を「普通選挙の実現」から見るのは狭量な見方で、地方と中央の2現場があって、それが互いに「第三者」としてふるまうとき(すなわち、地方には地方内に対立利益があってだから地方に於いて民主的な政治が成立し、国会においてもまたそうであるという、政治学上の原理に過ぎない。)、また「天皇」もひとつの機能としてそうであったと見ることもできる(ところ、「一揆」の伝統に見られるように、それは「現場」という悪しき具体性からの「超越」と捉えられる。一種の稀人である)。「天皇」と「国会」は、或る意味で、「実感としての民主主義(「我々」の社会における、参加的な、調整過程とそれを通じた統合機序)」における「ライバル」だったのだ(具体的に言えば、国会を通さない、勅令の多さである。戦後は、その「ライバル」関係を解消したといってよい、しかし、近代社会においても合理的専制乃至利益独占に対する感情レベルでの社会統合は必要なので、シンボルとして君臨して、何を持ってくるにしても、それは近代社会に必須であるとおおむね考えられるが、何をもってくるかは自明ではなく、「形骸化」という毒抜きは―何かを持ってくる必要があるので、決して無駄ではなく―合理的であると言える。「形骸」利用は、制度経済学上の定理と言ってよいほど、一般的にみられることである。例えば、婚姻がそうである)。民主主義の実現をどこに見るかの違いである(排除と抽象化―普遍化はその一種である―が模索課程を経る原理的乃至制度的な要請である)。それが「国家」として収れんされてゆく過程が「戦前」である。
梅津が石原を「刺した」のも、この主流派の伝統あればこそである(石原では梅津に、それこそクーデターでも起こさなけば、勝てなかったのだ。しかし、そもそもそんなことは、不可能であった。所詮、遅れて来た田舎者に過ぎない。これは、同じ田舎者でも、瀬島龍三と比べると興味深い。戦後に国際的に鳴らしたことが、戦前の変奏である。瀬島は、終戦工作でクーデター的な賭けに勝ったようにも見えるが、梅津との関係がどうであったのか。すなわちそれは、瀬島が主流派の衣鉢を継ぐ正統であったかである。そのおかげで第9師団は生き延びたわけだが、明治維新とともに始まった不遇が報われたのだろうか)。

石原は裁かれなかった。東京裁判がフェアであるかに議論が尽きないが、端から見ても、そんなものである。石原のは、おおむね大言壮語であり、自己演出である。
やはり(社会の影響を受けて浮き沈みが激しい)二流の人物であった。だからロマンティックな想像を掻き立てられる存在である。

それでは、こういう本が読むに堪えないかというと、考える処、読むのに苦痛を伴うが、「会話分析」ということはあって、語りにある背景が興味深いのだ。