「和魂洋才」の「魂」は仏性的自由であり、「才」は神の授ける自由である ㉗

近現代史は謎が多い。
主婦の友』って最大部数を誇っていたんだね(以前に気づいたような気もするが)。

やれやれ、歳をとると、筋トレと脳トレに時間を丁寧にかけないと、生きてゆくのが不安になる。

新聞を読んで。
次元の独立性に根差して、n次元の「対角線」が√nに定まる。
ある直線があるとき、その直線上にない1点から(直線へ)垂線を下して成る線分を1辺とすることから、正方形が構成されることに鑑み、同様に元の次元にない「1点」を求めることに「一般性」を獲得して、多次元へ拡張する。

正方形(二次元)なら、「対角線」は√2
立方体(三次元)なら、  〃  は√3
なら、四次元では?    〃  は√4=2(>0)

なら、百次元では?    〃  は√100=10(>0)

ということらしく、なぜ、紙面より詳しく述べられるかというと、どうも子どものころに聞いたことがあったようだ。

 

 

高峰秀子さんは、1924年大正13年)に北海道の函館で生まれたらしい。生母が4歳のときに亡くなられて、叔母さんが養母となった。この方が1901年(明治34年)に福井県で生まれたらしい。
福井県で料亭を営んでいた、生母と養母の父、すなわち祖父が、日露戦争への出征から帰還すると、離婚して、若い後妻を迎えた。それで評判を下げてしまったので、函館へ「一旗あげに」2人の女中さんまで引き連れて向かったのであるが、いきなり福井の旅館を畳んで得た新天地での開業資金などの財産を盗難されて、酷寒の地で貧窮を余儀なくされたらしい。養母は養子に出されたが、幼い子には感情の整理がつかなかったらしく、祖父とその後妻の下へ返された。
それから苦労のし通しで、やがて祖父の事業の方は成功へ向かって伸びていたが、祖父と確執があったわけでないにせよ、肩身が狭かったのか被害者意識に満ちて思春期を迎えた養母の感情は拗れるばかりで、こらえ切れず17歳で家を飛び出した。流しの旅役者、ならぬ、流しの活動弁士と駆け落ちしたのだ。
女弁士となって流れ流れて東京の鶯谷に落ち着いた養母だったが、夫の方は、今度は一座を旗揚げして再び旅に出た。
もとより売れない弁士だった夫が、珍しい女弁士として地方では人気の出た養母を尻目に、性分なのか暇に飽かせてなのか浮気を繰り返すものだから、折り合いが当初からよくなかったらしいが、東京に落ち着いて夫の帰りをひたすら待つ身になると、夫との愛情などより社会の都合で養母は子を欲しがった。夫が家に居つかないせいか、子が授からないので、高峰秀子さんを養女に申し入れたのだが、にべもなく断られていた。
ところが、生母が急死して、結局、養母に引き取られることに成ったらしい。
その養母に幼い頃『お前なんか人間じゃない、ただの血塊だ』と言われたのであるから、暗さが漂う。

高峰秀子さんの養母志げさんは、1909年(明治42年)に生まれた小森和子さんの8歳年上で、高峰秀子さんは、15歳年下である。
小森和子さんも『流れるままにふらついて』いることで、DVを受けたのだが、暗さがあまり感じられない。DV相手と『心中未遂!』で新聞を賑わせ、確かに平穏な心中ではなくなっていて、疑心に自信が揺らぎつつも、ボーイフレンとの華やかな付き合いを続けていた。

そうした境涯を『脱皮』するため社会へ職を求めたら、たちまち、憧れの、文芸春秋社の『婦人公論』の婦人記者になって、ランチが最低で50銭の時代に、というか、少し遡るが1911年(大正11年)に慶応を出て  の初任給が20円だったのだから、1928年(昭和3年)9月、奔放だった彼女が家から通うことが条件だったことにどう思ったかは知らないが、30円の月給で入社はなんとしたものだ。入ったら入ったで、菊地寛から声がかかる。

要は、ミドルクラスだったのである。
政界、官界、政商ほか大規模事業主などのアッパークラスでないが、貿易を営む中小企業主の子女で、エリート男子の「お嫁さん候補」と言っても、自由に袖にふれた。
その名を轟かす「雙葉」のハイカラな授業に憧れていたにも関わらず、図らずも(1922年・大正11年)入学した第三高等女学校でも「お転婆」で、なんとものびのびとしている。

平塚明子(らいてう)はアッパークラス出身で、身体が弱いということもあったが、なんだか悲壮的な雰囲気が漂う。
時代なのか性質たちなのか、長野の山奥にすっこむのと、余裕が乏しいからと短期でもダブルスクールでYMCAに通うのとでは、なんだか違う。

ja.wikipedia.org

840.gnpp.jp

www.targma.jp

1912年(明治45年)生まれ。神田高等女学校(千代田区)中退

1928年(昭和3年)生まれ。実践高等女学校(渋谷区)卒業


※『名家の御曹司、染め物屋の娘と心中未遂!』と報道されたが、実際は染色機械の販売を手掛けていたということである。

新宿の染物屋が考える着物の未来。なにを本当に残すべきなのか | 中川政七商店の読みもの

染色機械販売の会社・企業一覧(全国)|Baseconnect

稲畑勝太郎 - Wikipedia

中国の「礼記」の考え方が韓国に影響して、女性が戸主(戸長)となれない現実が生まれた。

東アジア伝統社会における女性の相続と財産分与に関する研究 吉田 ゆり子 助成先・報告一覧 研究助成 サントリー文化財団

日本の場合、いろいろなファクターが入り乱れて、一概に決定できないのが特徴だろうか。日本に来ると、外来思想は、だいたい「緩く」なる。この「濃淡」で事件が起こりやすいように感じる。
明治以降の戸籍制度は、それまでと区別すべきで、あくまで歴史法学上の「概念的対象」として〈参照〉されたにすぎず、基本的性格として「革命的」だった。
これを理解しないと、まるでわからなくなる。
言い換えると、それまでの戸籍が「ローマ法」として扱われたわけではないのだ。
「家」に関する外来思想の影響としては、中国の儒教、フランス民法(或いは、民法論争に於いては文献上明確ではないが、特に昭和期以降に発現する法的遺伝子として、プロシア民法の影響)がある。それ以降では、アメリカ州法などが、離縁について参照されている。

「日本特殊論」に注意しなければならないが、「東アジア」でいっしょくたにはできない。

これは個人的見解だが、能登半島から近畿を経て四国に至る遺伝子横断ライン。これを第一横断線として、これに第二横断線である、岐阜から長野を経て新潟に至るラインが(と東京ー軽井沢連絡線が)加わり、九州から東京に至る文化縦断ライン、東北エリア、北海道エリアをなんとなく、分別している。これと別に海路がある。
※だから八甲田山雪中行軍遭難事件に関心を持つ。北陸出身の参謀が「修験道」の知識がなかったのだろうか、なぜあのような失態になったのか。
綿雪結晶(3)(住所:石川県加賀市山中温泉下谷町 )|自然人ネット
第8師団参謀長林太一郎 - Wikipedia寺泊沖海戦 - Wikipediaの七尾出身である(師団長立見尚文桑名藩出身。幕府側で北越戦争に参加して、軍功をあげている)

 

白蓮事件 - Wikipedia

だからか、やたらと激しいというか。
血盟団事件もあったし、あれはどう理解すればよいのか、反対に、「白樺派」ではないが、西田幾多郎は随分と「(民権運動的)自由」の気風をもつ校長に反発したようだ(日本全国で学生は暴れていたが)。
上杉は、そこまでは考えていなかっただろう。そこら辺が、「大藩」で終わるか、「雄藩」となるかで、幕末実質日本一の「強藩」だったし、実際北越戦争でも日露戦争では奮戦したのだけれど、社会レベルでは「雄」の気質が強くならないのか、理念型に収まる。
上杉はもとより女権論者であるし※、晩年は、普選論者でもあった。※「良妻賢母」に見えて、実際そういう面もあろうが、一色につぶされた「思想」かどうかは、同様にわからない。社会をリードして(君子ではないが)「君子豹変」する、典型的なエリートと考える方がわかりやすい。それこそ明治には、まだまだ中世的な思想が支配的であったし、西欧の常識である「自然法」がよく、或いはまったく、理解されなかった状況もあった。要は、是々非々なのであった。

だから、日本列島をいっしょくたに、「家」だ戸籍だと大騒ぎされると、多少違和感がないとは言い切れない。
そういったところに、「家族」「世帯」が、派生してきたのだ。
「都会」と「地方」をまったく同じに考えられないし、「地方」は地方色に紛れていたということである。そこに国家制度の管が情報網を形成して走っていたのだ。

 ちょうどその前年、私が小学校6年生の時に白蓮事件というのがあった。柳原伯爵令嬢で美人の歌人としても知られた白蓮女史が、10年つれそった福岡の富豪の家を去って、7歳年下の青年と駆け落ちした。その青年が大陸浪人宮崎滔天の息子だったこともあって、この事件は当時たいへんなスキャンダルとして人々の話題になった。

 もちろんその頃の私には、事件の細部までを知ろうとする興味はなかったけれど、・・・・・・そんなにまで人を愛せるって素敵だな・・・・・・と、恋愛というものにも強くあこがれるようになっていた。

P31 『流れるままに、愛』小森和子,株式会社集英社

赤字強調は引用者(以下、同じ)。
大切なのは、それからモダンガールとなる小森和子さんが、11歳の、第三高女に入学する前年の当時を思い出して印象を述べていることで、いくつものフィルターがかかっているだろうが、整理するとこんな文言となるということである。

この文では〈も〉が効いていて、

  • 相対的である(複数の原因がある)
  • 付加的(乃至合流的)である※
  • 条件的である(帰結を導いている)

※「付加的」であることと、「合流的」であることは、論証上区別される(がこれは「論証」として述べられていない)。

であることがこの文の特質として挙げられ、偶々の印象を述べているにもかかわらず、それが「巷間」のものとして語られている。
要は、さんざん噂しては、そういうところに「落ち着く」のが、当時の常識的理解だったのだろう、ということだ。すなわち、「そういう気分」で生きて居たのだろう。
それに『真珠婦人』が影響を与えた可能性があった、、、、、、、ということである。

金色夜叉』(こんじきやしゃ)は、尾崎紅葉が書いた明治時代の代表的な小説。読売新聞に1897年(明治30年1月1日 - 1902年(明治35年)5月11日まで連載された。

金色夜叉 - Wikipedia

真珠夫人』(しんじゅふじん)は、菊池寛の長編小説。1920年(引用者注:大正9年6月9日から12月22日まで大阪毎日新聞東京日日新聞に連載された。

真珠夫人 - Wikipedia

この間に、

大菩薩峠』(だいぼさつとうげ)は、中里介山作の長編時代小説。1913年(引用者注:大正2年~1941年に都新聞・毎日新聞・読売新聞などに連載された41巻にのぼる未完の一大巨編。

大菩薩峠 (小説) - Wikipedia

があって、人を殺しまくるという、なんだかよくわからない小説だが、単に巷の人の劣情を満足させたのではなく、高尚と思しき、文壇の評価も高かった。
剣士はいつしかユディットに変わった。

ユディト記 1 | 新共同訳 聖書 | YouVersion
旧約聖書『ネヘミア記』を読む | PENS BOOK CLUB - 楽天ブログ
会長より ご挨拶 – 一般社団法人 大学女性協会

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これは2017年の本(講演をまとめたもの)だが、こういう方が、わかりやすい。
ここに「確率論」がかぶさって来る。

 

伊東哲は、白蓮を描いて、中央画壇を追放されたらしい。


www.youtube.com

伊東哲は東京美術学校(現在の東京藝術大学。所謂「東京藝大」)和田三造の弟子。和田は後年、フランスのモールス・ドニの影響を受けたようだから、伊東哲の後年の作品にもその影響がみられるか。師匠は朝鮮総督府の壁画を描き、弟子は台湾に関係が深い。

和田三造「壁画画稿」 - 足立区綾瀬美術館 annex
東京美術学校 (旧制) - Wikipedia
岡倉天心は、福井出身。

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「参考資料」 ≪沈思の歌星≫ 1927年(昭和2年
(多謝:粋狂老人のアートコラム

1891年(引用者注:明治24年)に金沢生まれ。金沢一中から東京美術学校西洋画科本科に入学。1916年(引用者注:大正5年)東京美術学校西洋画科本科卒業、第10回文展≪夫婦>初入選。19年第1回帝展に≪野≫入選。20年第2回帝展に≪高原>入選。22年第4回帝展に≪行楽の日≫入選。26年第7回帝展に≪遠足>入選。27年第8回帝展に≪沈思の歌星>入選。この頃、東京市巣鴨町宮下1695に居住。伊東は第8回帝展出品を最後に公の場での画家としての活動を止め、その後、日本を脱出して台湾に渡り、ダム建設の記録画の制作に従事している。この記録画は台湾・烏山頭の記念館に今も展示されている。伊東は日本に帰ることなく、中国で美術学校の教師として過ごした。日本を脱出する理由は、≪沈思の歌星>に関係して起きた何らかの事件のはずです。79年没、享年88歳。

『ドニは、最も早く絵画の平面性に注目した画家の1人である。このことは、モダニスムの出発点であるともいえる。』(wikipediaモーリス・ドニ』)

ナビ派の芸術観は、自然の光を画面上にとらえようとした印象派に反対し、画面それ自体の秩序を追求するものであった。グループの中でも理論家として知られるモーリス・ドニは、次のように述べている[4]。

絵画作品とは、裸婦とか、戦場の馬とか、その他何らかの逸話的なものである前に、本質的に、ある一定の秩序のもとに集められた色彩によって覆われた平坦な表面である(引用者注:1890年・明治23年)。


また、ナビ派を代表する画家ボナールは、次のように述べている[5]。

絵画とは小さな嘘をいくつも重ねて大きな真実を作ることである。

このように、ナビ派は19世紀を支配していた写実主義(レアリスム)を否定し、芸術の神秘性を主張するものであった。

ナビ派 - Wikipedia

モーリス・ドニ    1870年(明治2年)11月25日 - 1943年(昭和18年)11月13日

正木在任中の1915年1月、美術学校では学生の長髪禁止など風紀取締りを強化したが、これに対する反発をきっかけに翌年にかけて美術学校改革運動が起こった。美術学校の運営体制に関する批判や正木への個人攻撃が新聞・雑誌に掲載されたほか、国民美術協会が美術学校改革案を文部省に提出した(これらは先に美術学校を退職に追い込まれた美術評論家岩村透の扇動によるところが大きかった)。

正木直彦 - Wikipedia

正木直彦は、1901年(明治34年)8月9日 から1932年(昭和7年)3月31日まで、校長を務めた。大阪(堺市)出身の文部官僚。

政府の美術振興策の一環として施行された日本初の官展であり、明治時代の美術界に大きな影響を与えた

日展 - Wikipedia

nitten.or.jp