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今村 昌平 1926年(大正15年)9月15日 - 2006年(平成18年)5月30日
梶原 一騎 1936年(大正05年)9月04日 - 1987年(昭和62年)1月21日
梶原一騎は文芸史上もっと評価されてよいと思う。
ハイカルチャー、純文学の川端と比較して、サブカルチャー、娯楽漫画の梶原の評価は低い。
それでもノーベル賞を取らせた『国境の長いトンネルを抜けると雪国であった』は、〈主体〉がテキストの外に置かれて実際は、
国境の長いトンネルを抜けるとそこ〈が〉雪国であった
ではないかと思う。
国境の長いトンネルを抜けるとそこ〈は〉雪国であった
でないところが味噌である。雪国を問うているのではなく、それは記号的な扱いで、〈私〉を問うている〈主体〉小説だ。志賀直哉の伝統だろうか。
ならば、太宰の伝統である「熱血」を受け継いだのが、梶原一騎ではないか。
だからか、どうにも破綻的である。その破綻はちばてつやのものとは違う。
「少年」漫画の隠れた系譜である(人間像に過ぎなかった「小僧」から人間観を伴った「少年」になり、社会全体に埋め込まれるようになった。太宰の文学がそれを企図したかはわからないが、正統な文壇から評価を得られず、苦悶したのには、それ相応の理由がありそうだ)。
梶原一騎の最大のライバル、というより対照的だったのは、実は川端康成だったのではないかと思う。川端はロジカルではない。
父の龍夫が師範科時代に在籍していた学校である私立緑岡小学校(後の青山学院初等部)に入学
この『師範科』というのは
青山学院高等部英語師範科
のことではないかと思う。
ジョン・フランクリン・ガウチャーはアメリカのディッキンソン大学を卒業したメソジストの牧師であり、青山学院も設立したが、モルガン大学も設立した。
梶原一騎や今村昌平がどこであのようなロジックを身に付けたか不思議なのだが、何をみればわかるだろう?
1944年(昭和19年)に東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。附属中の同期には、星新一(小説家)、槌田満文(武蔵野大学名誉教授)、大野公男(元北海道情報大学学長)、児玉進(映画監督)、黒澤洋(元日本興業銀行会長)、星野英一(東京大学名誉教授)などがいた。
星新一が居る。なんだろう、私立、官立の違いがあるとはいえ、師範学校の教育の伝統だろうか。星は綴方の名人だった。
三島由紀夫も居るが
丸谷 才一 1925年(大正14年)8月27日 - 2012年(平成24年)10月13日
阿久 悠 1937年(昭和12年)2月07日 - 2007年(平成19年)08月01日
孤独のグルメ←課長島耕作←ワタセセイゾウ←銀色夏生←寺山修司
明治32年(1899年)8月に文部省から訓令が出され、中学校における宗教教育や宗教的儀式を禁ずる
宗教教育の禁止とは言い過ぎで、
一方その間にあって本多庸一(青山学院長)、井深梶之助(明治学院長)などが文部省に訓令の撤回や適用除外の運動をし続けた結果、1901年(明34)5月、前述の上級学校への進学・徴兵猶予等の特典を回復することができた。
各種学校への「格下げ」が正しいようだ。
この頃、何があったのだろう。「軍国化」というのも奇妙な感じを受ける。
1901年1月:関一・福田徳三・津村秀松・志田鉀太郎・神田乃武ら欧州留学中の高商教授8名、「商業大学の必要」を建議。大学昇格運動の本格化。
にしても
1913年7月:文部省、専攻部の東京帝大吸収を企てるも教員・学生・同窓会一体の反対で断念。
ということがあった。
1898年(明治31年)にあったところ、
文科・理科を細分化し6部構成とする。
1900年(明治33年)には
文科・理科の区分を廃止して予科1年・本科3年・研究科1年の課程とし、他に専修科(3年)・撰科を設置。
と早々に改変している。要は、学校群が膨張と整理を繰り返していたのだ。
その中で、英語学校は、近代化初期の役割を終えて見直しが迫られていた、という理解と、メソジスト教会系が強かったのか聖公会系が強かったのかはよくわからないが、アメリカ学派が政治的に圧迫されたのだろうか。
むしろ、帝大(文部省の上位に君臨する内務省)支配云々じゃなかろうか。
エー・バートン・ヘボン(アメリカ合衆国ニュー・ヨーク、チェース・ナショナル・バンク頭取;ヘボン式ローマ字で有名なジェームス・カーティス・ヘボンの親類)から、渋沢栄一の斡旋があり、寄付を受けて東京帝国大学に美濃部達吉(米国憲法)と新渡戸稲造(米国史)と吉野作造(米国外交)との3講座がおざなりに設けられるのは、1918年(大正7年)である※。
とにかく、アメリカ人は寄付が多い印象だが、イギリス人やドイツ人やフランス人はどうだったのだろう。
※実はただの寄付であったのかどうか。
チェースは1917年、他の国内銀行33行とカナダの一銀行に混ざり、国外進出用ファンドをつくった(American Foreign Banking Corporation)
チェース・ナショナル銀行はロックフェラー系である。
ロックフェラー財閥系のチェース・ナショナル銀行Chase National Bank of the City of New York(1877設立)
ロックフェラーと言えば、野口英世で、1904年(明治34年)
10月、ロックフェラー医学研究所の一等助手となる。
研究者として怪しい資格であったが(一応、これも怪しい「済世学舎(専門学校)卒」で、医師免許は認められたが。国内の需要はあったとしても、この資格に国際的な信用があったのかどうか。粗製乱造のディプロマとは言わないが、紹介文が後押ししたか、それでも)、野心的なロックフェラーのお眼鏡にかなった(ただし、研究助手である。こういった経歴は別に恥でも何でもない。きちんと言った方がよいのではないかと思う)。
三菱地所はロックフェラー・センターを購入して名を馳せたが
尾崎は慶應義塾に学んだ英學派であり、聖公会系のクリスチャンでもあった。
政界を始めとした社会に「拝金宗」が蔓延していると指摘した。ここで「ありえない」とした上で「日本が共和制となった場合には」「三井、三菱が大統領の候補者となる」という趣旨の発言を行った
実は、大隈も聖公会系だったりする(プロテスタント系の最初の宣教師チャニング・ムーア・ウイリアムズに英語、数学を学んだらしい)。
板垣が尾崎の罷免を上奏した。これを受けた天皇は大隈と尾崎に不信感を持っていたこともあり、首相である大隈に是非を問うこともなく辞職を求めた
星亨は政敵である。
尾崎は病気を理由に文相を辞任し[8]、後任に星亨と江原素六を挙げていた
尾崎幸雄-Wikipedia
1887年(明治17年)ごろから、政府は軍事・鉄道関連以外の官営事業を安価で払い下げた。政府から厚く保護され、払い下げを受けた三井・三菱などの政商は産業資本家として成長し、資本主義成立の基礎を作っていった。
P65 『江戸から東京へ』,都立高等学校地理歴史科用,東京都教育委員会
👇慶応大学3年生によるゼミの発表