文章を直す前に


 ちょうどその前年、私が小学校6年生の時に白蓮事件というのがあった。柳原伯爵令嬢で美人の歌人としても知られた白蓮女史が、10年つれそった福岡の富豪の家を去って、7歳年下の青年と駆け落ちした。その青年が大陸浪人宮崎滔天の息子だったこともあって、この事件は当時たいへんなスキャンダルとして人々の話題になった。

 もちろんその頃の私には、事件の細部までを知ろうとする興味はなかったけれど、・・・・・・そんなにまで人を愛せるって素敵だな・・・・・・と、恋愛というものにも強くあこがれるようになっていた。

P31 『流れるままに、愛』小森和子,株式会社集英社

赤字強調は引用者(以下、同じ)。
大切なのは、それからモダンガールとなる小森和子さんが、11歳の、第三高女に入学する前年の当時を思い出して印象を述べていることで、いくつものフィルターがかかっているだろうが、整理するとこんな文言となるということである。

この文では〈も〉が効いていて、

  • 相対的である(複数の原因がある)
  • 付加的(乃至合流的)である※
  • 条件的である(帰結を導いている)

※「付加的」であることと、「合流的」であることは、論証上区別される(がこれは「論証」として述べられていない)。

であることがこの文の特質として挙げられ、偶々の印象を述べているにもかかわらず、それが「巷間」のものとして語られている。


伊東哲は、白蓮を描いて、中央画壇を追放されたらしい。


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伊東哲は東京美術学校(現在の東京藝術大学。所謂「東京藝大」)和田三造の弟子。和田は後年、フランスのモールス・ドニの影響を受けたようだから、伊東哲の後年の作品にもその影響がみられるか。師匠は朝鮮総督府の壁画を描き、弟子は台湾に関係が深い。

和田三造「壁画画稿」 - 足立区綾瀬美術館 annex
東京美術学校 (旧制) - Wikipedia
岡倉天心は、福井出身。

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「参考資料」 ≪沈思の歌星≫ 1927年(昭和2年
(多謝:粋狂老人のアートコラム

1891年(引用者注:明治24年)に金沢生まれ。金沢一中から東京美術学校西洋画科本科に入学。1916年(引用者注:大正5年)東京美術学校西洋画科本科卒業、第10回文展≪夫婦>初入選。19年第1回帝展に≪野≫入選。20年第2回帝展に≪高原>入選。22年第4回帝展に≪行楽の日≫入選。26年第7回帝展に≪遠足>入選。27年第8回帝展に≪沈思の歌星>入選。この頃、東京市巣鴨町宮下1695に居住。伊東は第8回帝展出品を最後に公の場での画家としての活動を止め、その後、日本を脱出して台湾に渡り、ダム建設の記録画の制作に従事している。この記録画は台湾・烏山頭の記念館に今も展示されている。伊東は日本に帰ることなく、中国で美術学校の教師として過ごした。日本を脱出する理由は、≪沈思の歌星>に関係して起きた何らかの事件のはずです。79年没、享年88歳。

『ドニは、最も早く絵画の平面性に注目した画家の1人である。このことは、モダニスムの出発点であるともいえる。』(wikipediaモーリス・ドニ』)

ナビ派の芸術観は、自然の光を画面上にとらえようとした印象派に反対し、画面それ自体の秩序を追求するものであった。グループの中でも理論家として知られるモーリス・ドニは、次のように述べている[4]。

絵画作品とは、裸婦とか、戦場の馬とか、その他何らかの逸話的なものである前に、本質的に、ある一定の秩序のもとに集められた色彩によって覆われた平坦な表面である(引用者注:1890年・明治23年)。


また、ナビ派を代表する画家ボナールは、次のように述べている[5]。

絵画とは小さな嘘をいくつも重ねて大きな真実を作ることである。

このように、ナビ派は19世紀を支配していた写実主義(レアリスム)を否定し、芸術の神秘性を主張するものであった。

ナビ派 - Wikipedia

モーリス・ドニ    1870年(明治2年)11月25日 - 1943年(昭和18年)11月13日

正木在任中の1915年1月、美術学校では学生の長髪禁止など風紀取締りを強化したが、これに対する反発をきっかけに翌年にかけて美術学校改革運動が起こった。美術学校の運営体制に関する批判や正木への個人攻撃が新聞・雑誌に掲載されたほか、国民美術協会が美術学校改革案を文部省に提出した(これらは先に美術学校を退職に追い込まれた美術評論家岩村透の扇動によるところが大きかった)。

正木直彦 - Wikipedia

正木直彦は、1901年(明治34年)8月9日 から1932年(昭和7年)3月31日まで、校長を務めた。大阪(堺市)出身の文部官僚。

政府の美術振興策の一環として施行された日本初の官展であり、明治時代の美術界に大きな影響を与えた

日展 - Wikipedia

nitten.or.jp