国王に対する規定には「王1人では何もしない…王1人では国民に何も責任を持たない」と明文化されており、これはイギリス憲法の「王は何も悪事をできない」という原則に相似する(どちらの国でも、国王の提案決議に担当大臣が責任を負う)。
イギリスに留学した経験もあり、アメリカを含む各国の憲法を視察した伊藤博文が最終的に拠り所としたのがドイツであったとしても、それを説明するのが、ハーバード大学出身の金子堅太郎であったことを忘れてはならない。
その大日本帝国憲法に枢密院は定められていた。
枢密院は「国王選挙」と「憲法裁判所」との狭間にあった制度か。
日本でも、ケルゼンが主要な学説となってゆく。枢密院(大日本帝国憲法)はそういう
時代に考え出されたものであることを忘れてはならない。
5月3日憲法は、進化中の法律だったといえる。共著者の1人であるコウォンタイは、「全ての所有の権利を保障し、安全を確保し、全ての経済的労働の方法を尊重する、経済分野の憲法」の草案を作成中と述べた。これには、「公法の基礎」を主体とする5月3日憲法では十分に言及されていなかった「私法の基礎」を整備し、近代資本主義社会の健康な発展を確実化する目的があった。さらに、3番目の基本法として「倫理の憲法」の構想があると述べたが、これはアメリカの「権利章典」やフランスの「人間と市民の権利の宣言」にあたる内容だと思われる。
日本の民法制定も、憲法制定以上に白熱した。まさに「第二憲法」の制定にふさわしい熱量であった。
啓蒙時代のフランスとポーランドの政治運動を比べると、フランス革命がデカルト以来の社会設計の合理主義[22]にもとづき、前段階の物事(政府債務や対外債務を含む)の多くを破棄したうえでそれらとの継続性の薄い人工的な社会構築を導入する「革命(Revolution)」、つまり俗に言うところのガラガラポンであったのに対し、5月3日憲法は同時代のカントが実践理性批判で唱えたような、人間を手段ではなく目的とした哲学にもとづき、社会構造上の問題解決の必要に応じた漸進的な合理主義[23]にもとづいた「発展的変革(Evolution)」であった。これはフランス社会主義とポーランド自由主義(個人主義)の対立ともいえる。これはカントが個人個人の自律と定言命法を唱えたことと通じ、リベルム・ヴェトを立法という公の場でなく、私的な個人のうちに互いに認めることを大前提とすることを意味した。
赤字強調は引用者。
こういった社会の基礎に対する考え方の変容時期だったことも重要である。
日本の政治状況はどうであったか、
平沼を後継に推して議長を辞任した。だが、西園寺は倉富・平沼が軍部に心理的なバックアップを与えているとして反感を抱いており、後任に一木喜徳郎を推挙して任命にこぎつけた。
従前の「史観」に慣れていると、ここで溜飲を下げるところだが、それはどうだろう?
平沼騏一郎は一木喜徳郎ら近世派小日本主義(二宮尊徳主義)に対抗した近代派大日本主義(平沼の前には、新井白石に典型的にみられる)で、対政党という意味では、対選挙介入、対資本家という側面がなかったか。日本における自由主義は、ポーランドにおけるロシアの介入のような対外的脅威は存在していなかったが、「レッセフェール」に対する懐疑とともに政治的混乱に対する視線が秋霜のごとくあったのである。
或る政体を採れば「理想国家」がガラガラポンと出てくる、ベンダマシーンでは決してなかったことは強調されてよい。
そもそも民主主義の実現は中央政治のみで実現されることはなく、また「国民」の形成に関しても、選挙のみで達成されたわけでもない。
いままでの「史観」が、あまりにファンタジーに彩られていたことは、論を待たない。
そのために、補助線として、ポーランド=リトアニア憲法を考えることは、意義深いことである。
相当粘り強い思索が要る。