若草物語の原題。
ふつうに訳すと、「少女たち。すなわち、メグ、ジョー、ベス、そして、エイミー」
じゃないかと思うけれど。
昔風に訳すと、「少女たち。或いは、メグ、ジョー、ベス、及びエイミー」かもしれない。
「及び」と「並びに」の意味と違いとは? 類義語や対義語などを解説 | RUN-WAY
ただそれだと、個別の人格の違いを無視して気持ち悪い。
人間は饅頭じゃないからね。
「少女たち。或いは、メグ、ジョー、ベス、並びにエイミー」と、規則では「種の違い」を強調するときに使う、並びに、を使いたくなる。ここで並記される人格は、内実の違いを表現しているはずだからだ。
この「或いは」は、あくまで表現上の選択で、同じ内容を説明し直した表現であるので、「すなわち」でよい。それはそれで「ラベリング」のニュアンスを持ってよいと感じる。
聖書で、使徒に対して、
12人の使徒。すなわちペテロ (シモン) ,ゼベダイの子ヤコブ,ヨハネ,アンデレ,ピリポ,バルトロマイ,マタイ,トマス,アルパヨの子ヤコブ,タダイ (ユダ) ,熱心党のシモン,イスカリオテのユダの 12人 (マタイ福音書 10・2~3,マルコ福音書3・16~19,ルカ福音書6・13~16,使徒行伝1・13) 。
ただ、そうすると、時代が時代だけに、
森の石松とか
白浪五人衆になってしまうからだろうか。
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わざわざ「若草」と言わずとも、「少女」で十分なのだ。
このとき「若草」はイメージを喚起するが、そういう話なのだろうか。
ならばなぜ、"or, Meg, Jo, Beth and Amy"なのか?
という疑問を感じたのであった。
受容の仕方を自然と制限しているのだとしたら、「浪曲」を避けて、「和歌」を選ぶのを「自然」と感じるのは、ただのイデオロギーである。