シンどろろ ㉒

 

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こういうのを見ると、上杉謙信の「騎馬隊」が「無敵」だったというのは、いや、騎馬民族じゃあるまいに、そんな馬が居たかわからないうえに、古代中国の秦の時代からそもそも軍馬だって、訓練しないと使えないぞ。「運用」するって「長期計画」だよ(そんなに「走れる広野」があるなら、大砲が展開できる?だろう―大砲を造る鉄が造れるかはさておき)。

、、、との放言は棚に上げて、

上杉謙信の支配する越後は、戦国時代は現在のような米どころではなかったのですが、領内には直江津、柏崎の2つの港や金山、銀山があり謙信は戦国大名としては裕福でした。

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こんなこと当たり前だろうか?いや、実感から言えば、謙信は相当なことをやってのけた。普通は、イベントなんかでも、気心の知れた自然な関係の「振る舞い」を通して「作業」を繰り返すのが一般的だからだ。このとき、「人間関係」と「作業」は「慣れ」を通じて表と裏の関係である。寄せ集めを統一のルールのもとに従わせることは、今日でも、相当の難事業で、余程の強制力がなければ、ほとんど不可能に近いと思う。というのは、こういうのは、自然と教育された人間像に基づくからだ。ルールは大抵の場合それに反するそれは「人間関係に基づくふるまい」を「ルールに基づく行為」に置き換えることだが、これが異様に難しい。学校教育を受けてなお、学校も地域に埋没するからだ。学校は、委員会とPTAという民主的な制度の下、社会成員の再生産を目的とするからだ。「統制」という外部表現に着目しても、それは手段乃至せいぜい目標に過ぎない。基本的に「保守的」である。これは政治のことではない。集団の「凝集作用」とも言うべき経路依存のことであり、成員としての意味を返す帰属文化である。

でました「直江津」。

直江津(今町湊)は、室町時代に成立した日本最古の海洋法規集である「廻船式目(かいせんしきもく)」において、当時の日本で十を数えた大きな港を表わす三津七湊(さんしんしちそう)のうち七湊の一つに名を連ね、上杉謙信公の時代にはその財政を支える港として手厚く保護されるなど、北前船の就航以前から大きな後背地を持つ商業港として栄えていました。

日本遺産「荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間(北前船寄港地・船主集落)」 - 上越市ホームページ

手取川の戦い」の手取川の末端に「三津七湊」の加賀本吉湊がある。
そうすると、洲崎慶覚が上杉謙信を破った、というのは、(本当かどうかは知らないが)なかなか興味深いことなのだ。

稿本金沢市史  社寺編 , 金沢市 編 , 大正5-14 - 国立国会図書館デジタルコレクション

慶覚寺 (金沢市) - Wikipedia

御供田保・米丸保(ごくでんほ・よねまるほ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

加賀国石川郡米丸保(荘園) - 千年村プロジェクト

石坂台の町々と米丸村字増泉の図昭和6年 | 増泉 春日神社 〜五箇庄総鎮守〜

米泉 増泉 - 検索

米丸というか、増泉らしい。増泉と米泉は3キロ圏内。

米泉 米日吉神社 よねひよしじんじゃ | 増泉 春日神社 〜五箇庄総鎮守〜

稿本金沢市史  社寺編 , 金沢市 編 , 大正5-14 - 国立国会図書館デジタルコレクション

白山宮の経済基盤である神領は、米丸保や河内荘などの一円的神領を除けば、大半が神位田(しんいでん)(封戸など)の系統をひくもので、12世紀頃に、国司から国役免除の承認を受け、国免田となっていました。したがってその多くは、国衙領のうち散在的に分布し、加賀の国内各所に所在が知られるが、殊に本宮の鎮座する味智嚢(味知郷:みちのう)を中心に、石川平野で濃密な分布を見せていました。

 またこれらの神領は、仏神事用途料や寺家・社寺の給分と設置されており、個々の徳分収得者と百姓の間には、年貢・公事などの収取関係を通して、双方の内に人格的・身分的従属関係が生まれ易く、それが白山の神人や公人を作り出す基盤となっていました。

白山様とその歴史

白山比咩神社略誌 , 横山政和 著 出版者 蔵田八十八 , 明25.10 - 国立国会図書館デジタルコレクション

横山政和 - Wikipedia

加賀国能美郡白山図 | SHOSHO | 石川県立図書館

なんか知らんが、この二人は、コンビらしい。

大野荘 (加賀国) - Wikipedia

日元貿易 - Wikipedia

日宋貿易 - Wikipedia

寺社造営料唐船 - Wikipedia

日明貿易 - Wikipedia

朱印船 - Wikipedia


  1. 他の港湾自治領との違い
  2. 他の「百姓ノ持チタル土地」との違い

から、「百姓ノ持チタル国」の成立過程を考えたかったが、洲崎慶覚という人が不思議な人でよくわからなくなった。

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近江商人の生活態度 家訓・倫理・信仰 | カーリル

中世以後堅田荘には「堅田三方」(後に1つ増加して「堅田四方」となる)3つの惣組織が形成され、殿原衆(地侍)と全人衆(商工業者・周辺農民)からなる「堅田衆」による自治が行われており、「堅田湖族」とも呼ばれてもいた。

堅田 (大津市) - Wikipedia

近江商人にみる真宗の精神

大津(粟津)である。

鎌倉時代には粟津荘(しょう)、南北朝時代には粟津別保が置かれ

粟津(あわづ)とは? 意味や使い方 - コトバンク

「保」とは

保は別名とともに国衙から一定地域の国衙領の占有を認められ、内部の荒野の開発と勧農、支配に関する権利を付与されたものを指したが、保は別名とは違って在家(現地住民)に支配が及んでいたと考えられている。ただし、国守が負っていた何らかの負担を土地に転嫁する際に採用された所領形式とする異説もある。

保 - Wikipedia

「荘」に対する「押領」、「保」、「悪党」、「神人」「公人」
ここに自治に関して勢力争いがそれぞれ起こってきたらしい。

近畿における比叡山との争い、洲崎慶覚とライバル「賊」の争い、富樫氏内部の争い、加賀の馬場と越前の馬場の争いなどがあった。

むしろ、加賀の一向一揆は、堅田の性格を受け継ぎながらも、地場の影響を受けて、どのように変遷して行ったかを見るべきかもしれない。

  1. 富樫政親戦国大名になれたか
  2. 富樫
  3. 洲崎慶覚は戦国大名になれたか
  4. 実如は戦国大名になれたか

キリシタン大名は有名だが、真宗大名はどれだけいたのか。

  1. 兵農分離を果たし織田信長の兵と門徒の百姓では、どちらの「逃散」の足が早く、長かったか
  2. 上杉謙信の「備」と門徒州のはどちらが

また上杉は上洛前に早逝するが

  1. 上杉謙信は、大量動員しないまま天下統一できたか
  2. 上杉謙信は西国の港を押さえずに戦術的に対応できたか

上杉謙信は天下に覇を唱えることを望んでいなかっただろうか。

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そして、もう一人のライバル、高田門徒であり、伊勢津である。

専修寺 - Wikipedia

『福井県史』通史編2 中世