シンどろろ㉓

『三州志』は流れを追うのによいのであるが、なにしろ、人が次から次に出て来て、読んでいる方が混乱してしまう。また、読んでいると、自然と戦国の大名の話に繋がってゆくので、とりとめもない。

三州志 〔第3〕 〔ケンコウ〕余考 巻之1−9 , 富田景周 編 , 1884 - 国立国会図書館デジタルコレクション

侠客伝 : 開巻奇驚 第1編巻之3 - 国立国会図書館デジタルコレクション

越智吉徳 | 人物詳細 | ふるさとコレクション | SHOSHO | 石川県立図書館

『官知論』現代語訳その十二

とりあえず、洲崎慶覚を中心に考えるとして、安藤九郎は安藤九郎定家であり、越智伯耆は越智吉徳で伯耆守だったらしい。洲崎慶覚は、洲崎兵庫と名乗っている。

伯耆国 - Wikipedia

越智吉徳は洲崎慶覚の前の松根城城主だったらしいが、そうすると、この越智吉徳がどこから来た人なのかよくわからない。

北畠家 - Wikipedia

越智氏 - Wikipedia

ただそう名乗っただけで関係などないのか(洲崎慶覚もいろいろと名乗るが胡散臭いい)。
或いは、伊予なのか、大和なのか、伊勢なのか。伊勢ならば、高田門徒だったのか。

そうすると、

その後、室町期に道後に湯築城を築き本拠を移した。根拠地の伊予が地政学的にも周辺諸国からの介入を受けやすい位置にあったこともあり内乱を繰り返すこととなった。その結果勢力を削ぐこととなり、戦国大名として変移できなかった典型的地方豪族といえる[要出典]。

河野氏 - Wikipedia

ということが腑に落ちる。河野氏とかかわりがあったかではなく、加賀に戦国大名が生まれなかった理由である。
『三州志』を読んでいると、能登畠山氏は自然と戦国大名になり、洲崎らと共闘しながらも、上杉謙信らと戦ってゆくさまが流れてゆく。

すったもんだしているうちに、明智光秀が出て来て、柴田勝家がやって来た。

富樫氏は有力であったが、増税したら倒されたことからわかるのは、「戦力大名」の勢力を維持するだけの基盤が相対的に弱かったのだろうということである。

どれだけ難しかったかというと、

赤松政則 - Wikipedia

赤松政則という人が居た。加賀の北半分の守護となった人だが、この人が、

嘉吉の乱で滅亡した赤松家を再興した中興の英主で、管領の細川家に接近して中央政界での影響力を高めて従三位まで登り詰めた。一方で赤松家の戦国大名化も務め、1代で赤松家の全盛期を築き上げた。

この書き方が微妙なのは、支配地が移り変わってゆくからだ。いつ守護大名から戦国大名になったのか。「赤松家を再興」して加賀の北半分の守護となったのだが、追い出されているのだ。その後、播磨(兵庫県)に戻って、旧赤松家の支配を復しているいるのだ。見ての通り、「兵庫」が出てくる。一方で、

乱勃発で大内政弘は宗全の要請で領国周防から出陣、応仁元年7月20日に兵庫に上陸して8月23日に上洛、西軍と合流して東軍の脅威となった。

応仁の乱 - Wikipedia

どうなのか

10月に山名宗全の次男の山名是豊と赤松政則が東軍の援軍として大内軍を撃破して兵庫を奪還した

応仁の乱 - Wikipedia

そうして、

乱勃発直後の応仁元年(引用者註:1467年)5月に宇野政秀は播磨に下向して赤松氏遺臣の蜂起を促し、播磨を手に入れると備前・美作にも侵攻し備前も奪回したが、美作は守護代の抵抗が強く一度敗退、完全平定まで3年後の文明2年までかかった。この間、宇野政秀は文明元年に摂津で山名是豊と合流して池田城の救援に赴き大内軍を撃破、兵庫を奪還している。また、乱における活躍で赤松政則は東軍から3ヶ国の守護に任じられ、赤松氏の再興に大きく前進した。

応仁の乱 - Wikipedia

はいいが、摂津でも、(兵庫の)港の方は、

有馬郡においては播磨守護赤松氏が分郡守護となって一族の有馬氏が支配しており

摂津国 - Wikipedia

どういう経緯かそれを知りたいのだが、、

応仁の乱以降には堺を本拠とする管領家細川氏や、乱で兵庫を得た大内氏、博多や堺などの有力商人が経営するようになった。

日明貿易 - Wikipedia

この大内氏が「撰銭令」を出す。

 

時代感覚がこんがらがってくる。

加賀一向一揆 - Wikipedia

加賀一向一揆年表・年齢表

 

ともかく、赤松氏は、戦国大名にはなったが、有力な家臣のバランスをとるのに苦労したようだ。
もちろん経緯があるので安易に比較できることでは決してないが、そうすると、後に、外部から来た前田家が、7湊の半分を広く抑えて、1つの津に匹敵する運営をし、やがて「抜荷」の利益を享受していたのは、含蓄に富む。
加賀100万石には9人の大名が居たと言われている。