なにしろ、経緯がややこしい。加賀の一向一揆は富樫氏を追い出したのであるが、これが高田門徒と結んでいたためである。
ところが、後白河が帰京した3月22日、山門(比叡山延暦寺)の大衆が加賀守・藤原師高の配流を求めて強訴を起こした(白山事件)。
実は、それ以前の1147年に、白山比咩神社は比叡山延暦寺(天台宗)の末寺となっていたのだ。
白山の神が歴史の中に登場するのは、仁寿3年(853)加賀国の白山比咩神が従三位に叙せられたと「日本文徳天皇実録」にあります。ついて天安3年(859)、全国267社に神格の叙位があり、白山比咩神は、このとき正三位に昇進しました。(日本三代実録)
その後、「永治元年(1141年)に至り、正一位を賜った」というのであるから、従三位で死んだ、播磨、備前、美作3国(兵庫県、岡山県)と摂津の有馬を治めた戦国大名赤松政則より「格上」だったようだが、どうだったのだろう?その後に比叡山の末寺になっている。
結論からいえば、国家権力との癒着・結合が成立していたわけであるが、はじめに朝廷との関係から見ていくと、それは「王法仏法相依」とも称される。「王法」は政治権力で、「仏法」は宗教権威であり、このふたつはまさしく「王法仏法相双ぶこと、たとえば車の二輪、鳥の二翼のごとし」(『東大寺文書』)、「仏法王法牛角なり」(『平家物語』)という言葉に象徴される、相互補完的な関係にあった。
むろん、ここでいう「仏法」とは顕密仏教のことであって、中世の顕密仏教は国家権力との適合性を兼ね備ている正統的宗教、あるいは宗教における正統的存在であったという。同時に、天皇の即位儀礼・密教修法(印明伝授・即位灌頂)や皇族・貴族の入寺(出家)、その氏寺・氏神・氏寺・氏神の存在(例えば藤原氏の氏寺・氏神は、それぞれ大和国の興福寺・春日大社)なども公家と寺家の相互補完関係を推進した。
白山比咩神社はどうだったか知らないが、この頃の比叡山はかなり乱暴だったらしく、神社だろうが、勝手に松寺にしてしまってもろもろ要求していたらしい。
782年(延暦元年)日吉八王子山の麓に白山権現が顕われたと伝わり[7]、858年(天安2年)比叡山延暦寺にも勧請されて山王七社の客人宮で祀られた。
日吉神人は近江で金融業を営んでいたらしい。
貞治六年(正平二十二年。一三六七)、山城国南禅寺(臨済宗)は関所を設けて銭を徴収していた。そこに、近江国園城寺(天台宗)の稚児(児童)が通りかかり、関銭(通行税)を支払わずに通ろうとした。そのため、関所の人びと(南禅寺側)が稚児に乱暴行為をはたらき、これに対して園城寺側も即座に報復を行い、関所の禅僧以下複数を殺害し、関所もことごとく破壊してしまう。
山城一向一揆は、
宇治に集まったということであるが、
要は、天台宗である。
ビジョンがなく行われてしまったため、結局は分解してしまったのです。
さて、もうひとつの応仁の乱の「その後」である
では、越智氏がすったもんだしている。
この違いは、黄衣神人は春日社(政所)が補任し、白人
神人は興福寺が任用したことにちなむらしい。
越智家栄は白人神人であったらしい。
加賀一向一揆の最初のリーダー、越智伯耆守は、伯耆国が北陸道の先にある出雲の手前である点も興味深いが、越智氏の名門の出であるかもしれない点も興味深い(ちなみに、伊藤博文は越智宿禰博文であるらしい)。
またなぞの人が出てきたが
また、白山信仰を焼き討ちしてしまう。
金沢市 増泉 春日神社 | 増泉 春日神社 〜五箇庄総鎮守〜
春日神社も比咩神社と関係があり、この増泉は、洲崎慶覚の支配地域であった。
要は、顕密仏教と鎌倉新仏教の対立である。
白山修験道の衰退と鎌倉仏教の興隆 : 白山美濃馬場を中心に - 国立国会図書館デジタルコレクション
この地の修験道の中心は那谷寺(真言宗)へ移っていったらしい。
P.105「金森氏」「法相宗」
ちなみに、一向一揆の最後の砦鳥越城は、別名「別宮城」とというらしい。
結局、手前の佐良も中宮も
それでは前田家の菩提寺はどうかを見ると、
曹洞宗である。
📕🗻 「越中五位庄」に創建された「高獄山雲龍寺」 の真実⇒室町時代に創建された古刹の由緒は誤っているのか? - 赤丸米のふるさとから 越中のささやき ぬぬぬ!!!