1900年夏に大和の飛鳥坐神社を一人で訪れた折に、9歳上の浄土真宗の僧侶で仏教改革運動家である藤無染(ふじ・むぜん)と出会って初恋を知ったという説がある。富岡多惠子によると、迢空という号は、このとき無染に付けられた愛称に由来している可能性[2]があるという。
藤無染は第五仏教中学で教えたらしい。
仏教中学は全国で5校あった。第一仏教中学(現:高輪高等学校)、第二仏教中学(現:北陸高等学校)、第三仏教中学(現:龍谷大学付属平安高等学校)、第四仏教中学(現:崇徳高等学校)、第五仏教中学(現:龍谷高等学校)である。いずれも旧制中学校の要件を満たない「中学」である。
一方、こちらは、お東さんとの共立だったらしい。
私立大谷尋常中学
1888年に、僧侶養成を目的とした中学設置の必要に迫られていた真宗大谷派加賀教校と共同で経営する共立尋常中学を設置しました。
類似した変遷をたどった高校に、
キリスト教系各派の学校の進出や私塾の乱立で競争が激化した中にあって、幼児生存率が全国で比べて異様に低かった金沢に、幼児保護が普及してゆくのだけれど、それはまた別の話。城下町金沢は、一度閑散としてしまって、県都の地位を追われた歴史がある。
金沢市立玉川図書館 近世史料館『加賀藩と北越戦争』(平成24年)
(展示案内−金沢市立玉川図書館近世史料館)
県財政と城下町の行方という観点からも、明治維新は興味深い。
太政官日誌 慶応4年 第11−12巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション
本当に日本で一番強かったのは、薩長だったのか?
「能登」の語源は何かよくわからないらしい。アイヌ語でないのか、朝鮮語でないのか、と言われ、佐渡との対比であって、「サ」は狭い、「ノ」は長いを意味したとも言われるが判然としない。
三州志 〔第1〕 来因概覧,来因概覧附録 - 国立国会図書館デジタルコレクション
しかし、中国や韓国では、渤海の研究が盛んとなっているらしく、朝鮮半島経由で九州へ渡った人たちとは別に、日本海を渡って来た人たちとの交流もあった、乃至盛んだった、ということらしい。
「能登屋」(のとや)さんの名字の由来、語源、分布。 - 日本姓氏語源辞典・人名力
「能登」(のと)さんの名字の由来、語源、分布。 - 日本姓氏語源辞典・人名力
舳倉島の石積み(ケルン)や七尾城の登り石垣の由来も判明して欲しいところだ。
それはそうと、現在の能登のイメージを作った一人が折口信夫でないのか、というところがあって、それ以前の能登はもっと違ったイメージだったのではないかと思う。
とりあえず能登の話題は置くとして、「新仏教」である。