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石原裕次郎長嶋茂雄はボンボンだったけれど、大江健三郎はどうだったのか。


石原裕次郎の父親石原潔は愛媛県出身で現在の大須市らしい。
大江健三郎は同じく愛媛県出身で、現在の内子町らしい。
石原潔は早くに警察官だった父親を亡くし苦労したようで、14歳で旧制宇和島中学を中退し山下汽船に入ったらしい。
山下汽船はやはり愛媛の出身で、旧制南予中学(後の旧制宇和島中学)を中退した山下亀次郎が起こした会社で、山下亀次郎は、それでも明治法律学校明治大学)へ進学したときに、やはり宇和島出身の穂積陳重に師事したらしい。これは講義を受けただけではなく個人的に教授してもらったようだが、山下は明治も退学しているので、大学院で指導されたとか、そういうことではない。
松山市出身の秋山真之もやはり旧制松山中学を中退しているが、兄の秋山好古は卒業して官立大阪師範学校へ進学している。真之は東京へ出て立身出世するために中退したということであるから、これは当時の「中央」と「地方」の事情なのか、当時の「師範学校への進学」と「大学への進学」の事情なのか、よくわからない。あの正岡子規もやはり旧制松山中学を中退している。
松山と言えば、伊予銀行(旧第二十九国立銀行)と伊予商人が有名である。東京へのルートは確立されていたのだろうか?

「明治になってからは、伊予商人は船じゃなくて鉄道で移動するんだ。『先遣隊』の人が集会場で、見本の陶磁器や漆器を並べ、注文を取って、その後、別の人が商品を配達し、代金を回収したんだ。紀伊漆器って結構高くて、お客さんはすぐにお金を全部払えないんだ。それで、集金する時に『月賦』にしたんだよ。頭金を一割入れて、残りを分割で払うやり方だ。漆器だけではなく、呉服、家具、宝石なんかも売っていた」 漆器は祝儀、不祝儀に使うため、何千揃えと必要としたのでまとめて買うと高額になったのだ。 「いつごろ伊予商人は東京に来たんですか」 「大正のはじめのころだよ。東京の貸席を販売会場として、家具や漆器などを売っていたんだ。頭金だけで商品を渡して、後は九カ月払いで集金するやり方が広まったんだ」 「どうして月賦屋が急に増えたのですか」 「ちょうど、第一次世界大戦後の好景気だったんだ。会社から給料をもらって働く人が増えて、分割払いが 流行った。月賦販売はものすごい儲かったんだ。『東京で月賦店を開き、儲かった』っていう噂が今治で流れると、我も我もと、上京する人が出てきた。最初は店員として入り、その後、独立する人が相次いだんだ。俺もその一人だよ」 「なんだか富山の薬売りみたいですね。日本中回って、いろんな家に薬を置いて、しばらくたって、また薬売りがその家に行って、使った薬だけ、お金をもらう商売と似ています。

「景気は自らつくる」日本で信用販売の歴史を作ってきた「丸井」の創業者青井忠治の歴史

旧制宇和島中学は、第六高等学校が岡山にあってより近いと思うが、鹿児島の第七高等学校の影響が濃かったらしい。それもまた不思議な話である。海運の関係だろうか。

伊予商人は、九州の佐賀と流通の中心地大阪を結んだらしい。

大江は、終戦後に内子高等実科女学校から内子高等女学校になったところ県立へ移管され共学になった内子高校から、旧制松山中学からかわった松山東高校へ転向したらしい。複雑である。内子高校は普通科となった高等女学校の5学年が揃ったところで共学になり、共学の3学年揃ったところに大江が入学した。荒れていたのだろうか?
というのは、以前、金沢英学院(真愛学校・北陸英和学校、金沢英学校、石川英学校など英学塾のほかにも私塾が「乱立」した後に、進学実績が高く、メソジスト系の背景から人材、資本の提携、協力などが—資金面で教会から支援を約束されることはないが、それでも広いネットワークに散在する篤志家から何かしら、つまりこの当時の学校設立にはこういった協力が不可欠だったわけだが—期待でき、各種学校へ体裁を整えてからさらに中学校への昇格も可能性があった当該校)の行く末を探して、中学校の設立認可を石川県へ実際に申請したかかどうかを検索していたら、別件で、実科から普通科へ転換したこの女学校と似たような話があったと思い出したからだ(金沢英学院の方は、結局、太平洋戦争の開始によって、アメリカ人教師たちが帰国することになり、やがて維持できなくなった)。
ただ、その場合、教師どうしの葛藤や諍いであって、それが生徒に波及するものだろうか。それとも生徒同士でなかなか協調し得ないところで、教師がそれに加担することがあったのだろうか。

 

辻政信もそうだったが、「大瀬村は森に囲まれた谷間の村」(wikipedia大江健三郎」)出身だから、貧困にあえいでいたかどうかは一概にいえなくて、

米、麦、大豆、茶、楮、和紙、蝋、タバコ、炭、薪、鮎などを産した。藩政期には500人以上の紙漉き職人が居たと伝えられる。明治・大正期には小田川の流れを利用した筏流しが行なわれた。

大瀬村 - Wikipedia

封建社会の統制と闘争(黒正巌,改造社,1928)|国立国会図書館デジタルコレクション

「大瀬騒動」があったくらいには、商品作物で儲かった人はいた、と言えるのではないか。要は、こういう人たちは、上流の中でも「下」なのか、中流の中でも「上」なのかを見ることになる。
ただ、大江は、父親が50歳の時に早逝しているので、それこそ辻政信と同じ苦労をしたかもしれないが、辻は何しろ実質長男で母親と共に家計を担う役割があったため、三男(母と、兄2人、姉2人、弟1人、妹1人)の大江とは事情が異なるかもしれない。

封建社会の統制と闘争(黒正巌,改造社,1928)|国立国会図書館デジタルコレクション
高橋ユニオンズを作った高橋龍太郎は、大江健三郎の隣の隣の村の出身だったりする。
17番が大江の出生地大瀬村で14番が高橋の出生地内子村である。


喜多郡-Wikipedia

高橋龍太郎は旧制松山中学を卒業後、一橋に進学したが、脚気で戻ってきて、三高へ転校したらしい。所謂「江戸患い」というものだろうか。官立だから「転校」ということがありえたらしい(Wikipedia高橋龍太郎」)。そこらへんの事情は、高木貞治を見ても、触れていただろうか。

高橋龍太郎 1875年(明治08年)07月15日 - 1967年(昭和42年)12月22日
      1898年(明治31年第三高等学校卒業
高木 貞治  1875年(明治08年)04月21日 - 1960年(昭和35年02月28日
       1894年(明治27年第三高等学校卒業

高橋もその後ドイツへ留学を果たしたらしい。

面白いところでは、カリフォルニアに愛媛県人会があったらしく、

新渡米 続(出版協会,明37,38)|国立国会図書館デジタルコレクション

愛知の団体もあったことだ。日本信販は、名古屋の山田光成が戦後設立したが、山田光成は戦前旅館業を営んでいた。

 

官報 1935年(昭和10年) 01月10日|国立国会図書館デジタルコレクション

旅館名は「山田モト」なのに、信用は「山田(トメ)」である。

山田光成-吉田勝昭の「私の履歴書」研究

明治40年、名古屋に生まれる。家業は旅館経営で裕福だったが、5歳の時旅館が火事で全焼し、その後すぐに父親も亡くなった。慶應義塾大学卒業後、父親の残した土地を売り「山田モト旅館」を開業。昭和6年、幹部候補生として軍隊に入り、マレー半島上陸作戦に参加。昭和18年に病気の為除隊となり、旅館経営に戻った山田は、「信用販売」という制度を思いつく。昭和23年41歳の時、資本金40万円で日本百貨サービス株式会社(現・日本信販)を設立。昭和26年日本百貨サービスを改組し、資本金1000万円で日本信用販売を設立。会長に前商工大臣、社長に元一橋大学長をむかえ、山田自身は取締役企画部長としてスタートした。年末には会員数は2万人を越え一般消費者に歓迎された。昭和26年度の売上1億5000万円が昭和28年には10億円、昭和31年には25億円を達成する。昭和36年三和銀行と折半出資で「日本クレジットビューロー(JCB)」を設立。

山田光成[やまだみつなり]日本信販・JCB創業者

官報 1934年(昭和9年)04月02日に陸軍騎兵少尉任官とあったのは、この人だったのだろうか。氏名しか掲載されていないのでよくわからない。

陶器瓷器必要率揮記 下(加藤数右衛門,明30.8)|国立国会図書館デジタルコレクション
これのどこかに「山田トメ」の記載がある(かもしれない。全文検索では出るが、なにぶん、この検索は怪しい)。
出版地が瀬戸町 (現愛知県瀬戸市)であって、瀬戸焼(陶磁器)で有名である。
ともすれば、伊予商人との繋がりの手がかりとなるかもしれない。

大正3年(1914)に第一次世界大戦が始まり、これまで活発に陶磁器の生産を続けていたドイツ、イギリス、フランスが戦争に巻き込まれ生産がストップすると、その代わりとしての日本製陶磁器の需要は大いに高まりました。そのなかでも、当時欧米の子供達に親しまれていたドイツ製の精巧なノベルティ(陶磁器製の置物、装飾品など)に代わって、瀬戸産のノベルティの台頭が注目されます。

瀬戸焼の歴史 大正、昭和時代 戦争と瀬戸窯業|瀬戸焼振興協会