小谷野敦『江藤淳と大江健三郎 ─戦後日本の政治と文学』(ちくま文庫)
— 筑摩書房 (@chikumashobo) March 13, 2023
大江と江藤は戦後文学史の宿命の敵同士として知られた。二人は何を考え、書き、どれだけの文学的達成をなしえたのか。50年代以降の日本文壇・論壇を浮き彫りにするW伝記。解説:大澤聡 2018年8月刊#ちくま1000「本」ノック+441 pic.twitter.com/jcBYYEBUUi
江藤淳(本名江頭淳夫)の父、江頭隆は、
- 長男
- 11歳で父江頭安太郎(1865-1913)を亡くし(享年47)、母の手で育てられた
- 中央大学経済学部を首席で卒業
- 三井銀行本店営業部勤務(役職不明)
- 江藤が幼いころ病気になって、父がドイツ製の薬をくれた
- 祖父が元気だったら、北海道に牧場を買ってもらって牧場をやりたかった、そうでなければ、内科・小児科の医師になりたかった、銀行員になど少しもなりたくはなかった
-
那須に別荘を持っていた。
江頭安太郎が、佐賀藩士江頭嘉助の子で、海軍兵学校12期を首席(全科目首席)、海軍大学校5期を首席で卒業した俊才の誉れ高い人物だった一方で、「海城中学校・高等学校の人物一覧」の「創立者一族」(Wikipedia)を見ても、江頭豊がたまたま帝大出身だが日本興行銀行のもともとは銀行家であって、あとは、一橋とか、慶応であるから、「軍人一家」でないように見える。
日露戦争後は日本興業銀行の活躍による外資導入、南満州鉄道株式会社などが刺激材料となって、再び企業熱が勃興し、東株(東京証券取引所)は三倍もの値をつけ、日本経済が飛躍的に発展する中で、三井銀行も大きな力を蓄えた。
翻って、中央大学の「立ち位置」を見ると、帝大法科の博士連中が、当時の法学教育における帝大の在り方に疑問と志を覚えて設立した就中イギリス法※の「実務家養成学校」から始まり(1885年・明治18年慶應義塾分校明治義塾跡地に「英吉利法律学校」として設立され、1889年・明治22年に「東京法学院」へ改称、民法典論争では、英法派の一拠点となったらしい。)、帝大の支配下に置かれることにはなったが、5大(「1886年の「私立法律学校特別監督条規」により、帝国大学総長の監督下となった帝国大学特別監督学校の5校」―Wikipedia「法律学校(旧制)」)とも6大とも言われた法律学校の一角を占め、特に実務法曹養成に関しては当初の志通りにその名を馳せ、大学の拡充に際して、早稲田、慶応とともに、専門学校から大学へ最初期に昇格した大学で、その後の商法、経済学の確立もあったからだろうか経済学部も設置され(1905年・明治38年に「中央大学」へ改称するとともに、経済科を法律科から独立させ、新設したらしい。余談だが、ここらへんの経緯は、東大と確執があった北里柴三郎の、1917年・大正6年慶応医学部学長就任、同年大日本医師会初代会長就任、1923年・大正12年日本医師会初代会長就任と比較すると面白いかもしれない。慶応が慶応であるのは、何も福沢諭吉のおかげばかりではないのである。)、公認会計士の輩出ではトップを譲ったことがないらしい。
ここで「らしい」とはそれぞれWikipedia「中央大学」「英吉利法律学校」による。
※これは意外に鍵となるかもしれず、三井銀行もイギリス寄りだったらしいし、その後の商法の発展は、イギリスだけにあった社債信託法の整備が意義深かったのであり、イギリスの債権市場で資金調達できるかが日露戦争の遂行に影響したのではなかったか。忘れた。(担保付)社会信託法は、1905年(明治38年)に成立、公布、施行である。平沼騏一郎が「ほとんど一人で立案し」(Wikipedia「平沼騏一郎」)たらしい。
首席卒業に関しては、以前、藤澤清造の出自から明治大正の「新階級」としてのマスコミ、教師のステータスに興味を覚えて国立国会図書館の資料を見たときに、帝大から学生を募集している企業でも、首席に限っては、私大から採ることがあったのではなかったか、記憶が定かではないが。
「私大首席卒業」はそういう(就職に関する)シグナルでなかったかと思うのであるが、ここで、(帝大はもちろん)一橋でない、ということが、三井銀行内の出世争いでどうだったかである。
台湾銀行、朝鮮銀行、満州中央銀行の歴代総裁を見ても、(帝大以外で)一橋、同志社、慶応、日大は出てくるが、「中央」は出てこない。
医者になりたかった云々については、隆の甥(弟の子)にあたる古賀慶次郎という人が、慶応の医学部を出た著名な医学者だったらしい。
そもそも江藤淳自身が、帝大卒でなく、慶応の文科であって教師から「(慶応を出ても)経済学部じゃない」と言われて憤慨したほどであるから、一物抱えていそうである。
要は、隆は、「創立家」としての社会的ステイタスを誇る内実を備えた一族の経営者として、別に恥じるところのない経歴ではないか、と思えるのである。
「創立家」だからと言って、自身が軍人である必要もない。むしろ、きちんと時流を押さえて、うまく凌いだ印象である。「凡庸な官吏」に過ぎなかった三島の父(東京帝大法律学科独法卒業。一高入学前の2浪時代に「哲学書、文芸書に親しんだ」とWikipediaにある。)とは、古典的な教養に差があったかもしれないが、それこそ、日窒(チッソ)を作った帝大で電気を学んだ野口遵(1873-1944)だって、どうだろう、講演が得意だったらしく書いたものも軽妙洒脱な「口調」であるが、彼に教養を与えたのは、般若心経の方ではなかったかと思うのである。
そこらへんが父子の確執を生んだのかもしれない。
すなわち、父からすれば、「寝台を潰す」という話であるが、その社会背景がある程度流動的で、入り組んでいるように思えるのである。