事実の詳細は知らないが、志賀が発言した『女中の敬語みたいなものでたまらない』は想像を掻き立てる。
1907年(明治40年)[28]、東京帝大に在学していた直哉は志賀家の女中と深い仲になり、結婚を希望するが父から強い反対に遭う。足尾銅山問題によりもともと良好ではなかった直哉と父の関係はこの一件で悪化する。1912年(大正元年)9月[28]、直哉は「大津順吉」を『中央公論』に発表する。この「大津順吉」は、女中との結婚問題を題材にした作品であった。この作品で直哉は初めて原稿料100円を得る[30]。
ともかく、腹を立てた太宰が書いた文章がこれである。
他人を攻撃したって、つまらない。攻撃すべきは、あの者たちの神だ。敵の神をこそ撃つべきだ。でも、撃つには先ず、敵の神を発見しなければならぬ。ひとは、自分の真の神をよく隠す。
如是我聞 | 青空文庫
これは、仏人ヴァレリイの呟つぶやきらしい
文庫の方は、1975年のものを文庫化したものらしい。同年2013年に別訳が出たらしい。
単行本。5788円もする。
コメントが非常に興味深い。3件あるが3件とも載せる。
Ayou
★★☆☆☆ 現実のロシアと西欧諸国を比べたら
2022年9月24日に日本でレビュー済み
キリスト教のヒュポスタシス思想について学ぶなら最高の良書ですが、正教会がより原初の個の思想を受け継いでる的な書き方には、違和感が大きい。本人もちょっと書いているが現実のロシアのような正教会の国より、アメリカやイギリスの方が文化的にも政治的にも真面目に個について考え個を守ろうとしてるし、その部分はこじつけが酷いと思う。
☟noteで。
奥田恵梨華ファン・太郎
★★★★☆ ペルソナ概念の歴史を知るのに良書
2014年12月4日に日本でレビュー済み
キリスト教の三位一体論やペルソナについて関心のある人には面白いだろうが、はじめとおわり以外は「学者風のかたくるしい書き方」なのでキリスト教の教義に関心のない人には苦痛な本かもしれない。三位一体論の教義やペルソナという概念の成立の歴史がニカイア公会議やカルケドン公会議などに沿って、すごく詳しく書かれている。よく調べたものだととても感心した。
筆者がこの本での〈個〉というのは、ヒュポスタシス(ギリシャ語)=ペルソナ(ラテン語)のことで、ふつうは神の位格のことだけど、概念として、能動的な、純粋な個的存在性、としての個性を考えている。
(以下、略)
「自己思惟」の問題である。
shos
★★★★★ 本質を語りつくす名著
2005年5月13日に日本でレビュー済み
この著作こそ、キリスト教神学の絶頂、神秘、美しさを余すところなく、語ってくれる名著である。本質の探究は、孤独の中でこそ、その望みがかない、時代をこえて受け継がれて行くものだと言うことを、教えてくれる。現代の人々に、この本が、理解できるだろうか。
戦前の世界と日本を考えるうえでも、「人権」の技術が未熟な段階において(むしろ、その進捗の反対に、19世紀科学革命に対するバックラッシュとしてオカルトブームがあったが、これなども、幾何的世界観への回帰運動だと見れば)、〈個〉の問題は〈孤独〉の問題として扱われた経緯がある。
markovproperty.hatenadiary.com
☞note
この『ユーラシア主義』は『ロシア世界』とも密接に関係しているのだが、これは『ロシア語を話し、ロシア正教を信じる人々が住んでいるところはすべてロシア』という極端な拡大主義だ。この考えに基づけば、『(ロシア語話者がいる)ウクライナも当然、ロシアになるべきだ』ということになる。
赤字強調は引用者。
むしろ、極端な「属人主義」の印象を受ける。
帝政時代になり,全自由民に市民権が与えられると,市民法に代わって万民法がローマ法の実体をなすようになった。
自然法的色彩が濃い。
このとき、
「ローマ帝国」は「ローマの命令権が及ぶ範囲」を意味するラテン語の “Imperium Romanum” の訳語である。インペリウム (imperium) は元々はローマの「命令権(統治権)」という意味であったが、転じてその支配権の及ぶ範囲のことをも指すようになった[4]。Imperium Romanum の語は共和政時代から用いられており、その意味において共和政時代からの古代ローマを指す名称である。日本語の「帝国」には「皇帝の支配する国」という印象が強いために、しばしば帝政以降のみを示す言葉として用いられているが、西洋における「帝国」は皇帝の存在を前提とした言葉ではなく統治の形態にのみ着目した言葉であり[5]、「多民族・多人種・多宗教を内包しつつも大きな領域を統治する国家」という意味の言葉である。
ローマ法と、19世紀のオカルティズム(ロシア・オカルティズム)の影響はどうだったのか。或いは旧ソ連法はどうだったのか。
9世紀には、バシレイオス1世とレオーン6世がユスティニアヌス法典中の勅法彙纂と学説彙纂を総合的にギリシャ語に翻訳させ、バシリカ法典(英語版)として知られるようになった。ユスティニアヌス法典やバシリカ法典に記録されたローマ法は、東ローマ帝国の滅亡とオスマン帝国による征服の後でさえ、ギリシャ正教の法廷やギリシャにおいては法実務の基礎となり続けた。
9乃至12世紀の地中海世界とヨーロッパ内陸部、外洋
(ヴァイキング-Wikipedia、ヴァリャーグからギリシアへの道-Wikipedia)
ローマのヨーロッパ法文化に対する最も重要な貢献といえるのは、よく練られた成文法が制定されたことではなく、ギリシャ哲学の科学的方法論を法律問題(ギリシャ人自身はこれを科学として取り扱ったことはなかった)に適用するヘレニズム法学と呼ばれるローマ法学の成立と専門家集団としての法律家の出現である。
それは、
お互いに対等な立場にある個人の意思を出発点とした抽象的な法理論が発展した。
対話者たちの信念に含まれる暗黙的な定義を明らかにするところまで、あるいは彼らがさらに理解することを助けるところまでこの方法を採用することは、産婆術 (maieutics) と呼ばれている。アリストテレスはこの定義の方法と帰納法を発見したのはソクラテスだとしている。アリストテレスはこれらの方法を科学的方法の本質だとみなしている。
こういうことだろうか。しかし、「科学」としてメソッドが取り入れられたのは、ハーバード・ロースクールである(イェールは古典主義だった)。
ちなみに、
1831年ウクライナ・エカチェリノスラフ(現ドニプロペトロウシク)にて、ドイツ系貴族で騎兵砲撃隊長のペーター・フォン・ハーンを父として、ロシアの名門出身で女権主義者で小説家のヘレナ・アンドレヤヴナ・フォン・ハーンを母として誕生。ロシア首相を務めたセルゲイ・ヴィッテ伯爵は従弟である。2人の共通の祖母が、ロシア建国者リューリクの血統の名家ドルゴルキイ家出身の女性博物者ヘレナ・パブロブナ・ファジェーエフである[5]。
戦前の日本について。
vur144/195から”La Conquête allemande” Fonds Paul Valéry. A OEUVRES. II ÉCRITS DE JEUNESSE. XX Articles, projets d'articles et textes divers, 1897-1900. Valéry, Paul (1871-1945). Producteur d'un fonds d'archives |
1896年にロンドンに滞在した際に、マラルメから紹介されていた詩人のウィリアム・ヘンリーと会い、その主催している雑誌『ザ・ニュー・レヴュー』に載ったドイツ産業のイギリス(大英帝国)への圧迫に関する論文について、哲学的結論をフランス語で書いて欲しいと依頼され、当時「方法(méthode)」について関心を持っていたことから、「ドイツ的制覇(La Conquête allemande)」を執筆し、1897年に掲載された。これは1915年にフランスの雑誌に再録され、1924年に「方法的制覇(Une Conquête méthodique)」と改題されて刊行された。この論文では、ドイツ、イタリア、日本などの後発の国家の繁栄の方法について述べており、のちの枢軸国を示唆していたとも言われる[2]。