英語って不思議な言語だなあって思う。

非征服民の言語である歴史と、征服民の言語である歴史と両方持っていて、人知を超える合理性、すなわち、(ピジン言語から)エスペラントまで人工言語も考えられたにも関わらず、英語が世界を席巻している。

一方で、言語覇権は、個別の学問分野でもあって、デカルトを理解するにはデカルトがそう願ったようにラテン語に対抗するフランス語の理解を伴うし、ルターを理解するにはルターがそう願ったようにラテン語に対抗するドイツ語の理解を伴う。

一方で、法言語学の観点からは、コモンセンスを決定づけたウィリアム・ブラックストンの法学がどのような語彙を持っていたかである。すなわち、女性と奴隷に関する所有権概念のことである。

ウィリアム・ブラックストン - Wikipedia

言語に関して「合理的」との判断がすでに、歴史的であるように見えるのだ。
つまり、歴史的に見て、征服によって合理化された経緯をもってなお、英語は必ずしも合理的とみなされてこなかったのではないか。「膠着語」という分類である。

これは日本語理解にも派生していて、「日本語は論理的でない」とは、この文脈で在ると思う。しかし、コピュラに着目するならば、他の自然言語と比較して遜色なく「論理的」であると思う。

また現代のヨーロッパ言語においては、屈折語的特徴が失われ、孤立語的・膠着語的性格が強まってきており、特に英語において顕著である。

屈折語 - Wikipedia

日本語が「論理的でない」のは、単純に、国語の文法が論理主義による理解を放棄しているからであるように見える。

ヴィトゲンシュタインを「心理主義」に分類した学者がかつていたようだが、それは戦前から続く日本の文芸界隈の理解であるように思う。
日本の文芸界隈へ論理主義は広がらなかったようである。
これが「芥川龍之介は論理的であるか」の問題である。

〈は〉しか使えなくなった芥川龍之介。精神的にあやしくなって、論理的には、むしろ後退した。有名なところで一番近づいたのがどうも志賀直哉で、芥川龍之介の苦悩を尻目に、むしろ夏目、芥川を発展させたが、彼のロジックも、古典(ギリシア的)以上の方法論を持たなかったようである。そういった意味で、芥川龍之介のロジカルな側面が反射されるが、そもそも「論理主義的理解」の伝統を持たないので、そう理解されることがない。「心理主義的理解」なら「ある」ので、このような本が出る(出せる)。
志賀直哉への理解も「社会主義的理解」が通常であったようだ。markovproperty.hatenadiary.com