丘陵地の平凡な丘の一つの上に立つカーラの家へと続く一本道(論理英語篇)

 

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前回は【学習のまとめ】に書いた通り、文法から解釈の「可能性」について考え、あわせて伝えるべき表現について考えてみた。

例えば、本当に丘の上に家が建っているのか、坂の途中なのかは、文法理解からは(少なくとも私の理解では)よくわからない(あくまで、初学者として、今後の学習の理解の進め方を示しただけである)。
このとき、それに関係して、coming beforeが、時間的なことなのか、距離的なことなのかについて、「意識の流れ」が、誰か偉大なイギリス文学者の突然のひらめきによるものではなく、間接話法の自然な発展において見出されたものであるならば、同じ心境で、時間と空間の同時的な理解がここにあってもおかしくないーあと数分で到着であるし、あと数メートルで到着することを、わざわざ分別しないーとの解釈をひそかに導入し、その主観的要素を「作者への信頼」と説明した。カーラから話を展開する意義がそこにある。

文章を説得的に理解するためには、文法への理解だけでは物足りないことを暗に主張している。
さて、新しい学習指導要領では、英語の論理的理解も必須となるらしい。
(或る意味批評の手法に倣って)冠詞/定冠詞に着目することで、論理を展開できるだろうか。
論理は評価のシステムのことであるが、〈量〉を与える意味がある。
一般的には、some(∃)/all(∀)で比較するが、ここでは、a/theで比較してみた。
或いは、今回は触れないが、allもallでいいのか、every/wholeの方がよりニュアンスを伝えるかもしれない。

その後もカナダの一地方を舞台とする作品を発表し続け、

アリス・マンロー - Wikipedia

どこらへんのことだろう?

.東部沿岸地方→セントローレンス川以南→準平原化の丘陵地

カナダ - 受験の地理

www.google.com

 

自分の言いたかったことを思い出した。

〇文法と論理は同じとは限らない
〇忘れた
〇論理と論理的文章は異なる

と考えたときに、「文法」の理解は文章読解に必要であるが、それだけでは十分でなく、「論理」も必要であり、読解に二重規範を立てることを当然とするべきであると思う。比喩的には、コペルニクスは十分科学的ではなく、その「真円へのこだわり」は所詮神学への傾倒であったが、楕円の発見によって信頼できる科学となったのである。このとき、作図上の楕円(自体)はギリシャ時代から知られていたが、それが神学への期待を裏切ったことが科学的に真に画期的であった。ここで「地動説」は「文法」にもっぱら依存した「文脈主義」に、「論理」は楕円に、ではなく、「文法」と「論理」の二重規範が「真円からの楕円化」の比喩である。

ならば、「論理」の持つ、合理性とまとめられがちな、効率性と効果性、就中後者に関して、普遍的な公平さが、「『俺の感覚』にも備わっている」と考えるのが近代性で、啓蒙思想である。
「論理」が、人間の生得的な、或いは数覚のような、合理(数理、衡量、空間理解或いは外形の当たりはずれを通じた類推への方法)的感性と尊厳的感性(理性)を信頼して共有できる言語作用であるならば、それもまた協調的なコミュニケーションであるから、適切な振る舞い(付随的な行為規範)も求められるのではないか、と思った次第である。

 

かつての、ALTに学んだ「英語C」(Ⅰ・Ⅱ・Ⅲとは別の、A・B・Cのうちのひとつ)が今のようなコミュニケーション英語であったか忘れてしまったが、批評にしろ、ここで謂う「論理」にしろ、コミュニケーションの一貫であるから、「対話的学習」として触れてもいいのではないかと思った。
「論理国語」では、批評の専門性の一歩手前にある、法実証主義を言ったが、ここでも似たようなことを考えたのであった。


カナダと勘違いしたが、日本古地図の比較を読み取る問題だった。
首都大学東京(理系)の論述問題のテーマに『丘陵地における宅地造成と緑化の方法の変化の理由』とある。

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(特集 地理A・地理B 2009年度入試の出題傾向/学校法人 河合塾専任講師 佐藤裕治 帝国書院 | 高校の先生のページ 高等学校 地理・地図資料

答えを知りたいなぁ。