追記した。
(鉄道各職員受験準備完成 : 実務兼用 , 帝国鉄道倶楽部編輯局 編 , 三友堂 , 大正8 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
「坊ちゃん」も覚えただろうか?
電気鉄道機械器具図解 , 東京市街鉄道株式会社車輛課 編 , 電友社 , 明38.7 - 国立国会図書館デジタルコレクション
(例規類纂 , 鉄道作業局建設部 , 明33.11 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
開始時(修了時)の年齢 → | 12歳(13歳) | 13歳(14歳) | 14歳(15歳) | 15歳(16歳) | 16歳(17歳) | |
---|---|---|---|---|---|---|
旧制 | 国民学校 | 高等科1年 | 高等科2年 | 特修科 | ||
中学校 | 1年 | 2年 | 3年 | 4年 | 5年 | |
高等女学校 | 1年 | 2年 | 3年 | 4年 | 5年 | |
実業学校 | 1年 | 2年 | 3年 | 4年 | 5年 | |
青年学校 | 普通科1年 | 普通科2年 | 本科1年 | 本科2年 | 本科3年 | |
高等学校 | 尋常科1年 | 尋常科2年 | 尋常科3年 | 尋常科4年 | 高等科1年 | |
師範学校 | 予科1年 | 予科2年 | 予科3年 | |||
大学 | 予科1年 | |||||
新制 | 中学校 | 1年 | 2年 | 3年 | ||
義務教育学校 | 7年 | 8年 | 9年 | |||
高等学校 | 1年 | 2年 |
明治專門學校學則及要覽 - 国立国会図書館デジタルコレクション
いわゆる「街鉄」の入社試験は見つからなかったが、官庁の鉄道技手(文官判任官)の試験規則を見つけた。
どうも、旧制中学校卒業程度で、「数学」が「算術、代数、幾何、三角」となっていて、物理学校で習う内容と同じようだ。
文部省教員検定試験数学科問題解義集 - 国立国会図書館デジタルコレクション
これと同程度ではないかと思う。
試験の免除は、「専門学校卒業程度」で、これが中学卒業後に4年通うのであるから、なるほど、20歳で就職となるのだが、これが専門学校令による専門学校なら、最終学歴が物理学校卒業の「坊ちゃん」には無理なようだ。
ただ、石川県立工業学校は、「中等学校」という位置づけということで、どうもここらへんがよくわからない。促成3年、本科5年である。
(道庁府県立学校表 明治24-26年 , 文部省 , 明23-28 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
金沢区工業学校から石川県立工業高等学校へ(その1) | 県工130年の歴史 | 石川県立工業高等学校同窓会
39年改正(4学期制から6学期制へ:6カ月/学期×6学期)
8年改正(予科半年—別科6カ月/学期×6学期—本科/高等師範科3年)
(東京物理学校五十年小史 , 東京物理学校 , 昭和5 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
専門学校令にしたがう専門学校とはなって、入学資格が「年齢14歳以上の男子」から進学を希望する学科ごとに分けられた。旧制中学校を卒業して、或いは専門学校検定試験に合格するなどして(東京物理学校学則第4条)、本科3年若しくは高等師範科3年、 だいたい 高等小学校卒業若しくは旧制中学2年修了で別科3年、満14歳以上にして学力不足なら予科半年ーこれは小中学校から2月か9月に入学する際の期間調整も兼ねてか(要確認)。
明治14年に発足した夜学の「東京物理講習所」が「中学以下ノ学校教師タル者又ハ中学以上ノ学術ヲ修メント欲スル者」(P.7,『東京物理学校五十年小史』)に対して物理学のみを教えていたところ、翌年には物理学科・数理学科の2学科を設置し、その翌年の明治16年には(規則要領)「東京物理学校」に改称、「是年」とあるのは(P.21,同前)明治18年だろうか—明治19年の校舎移転のため—14歳以上の者を対象に2年で「高等中学科及び高等師範学科ノ程度ニ準ジテ、数学、重学、測量学、天文学、物理学及ビ化学ヲ教フル」と規則を改定し併せて科目に微積分を含む通信質問規則を設け(科目は算術、代数学、幾何学、平面・球面三角法、代数幾何学、論理重学、微分法、積分法;定員を毎期30名とし、質問は月に4問まで。)、明治20年に(半年:6カ月を1学期とし、通算2年の)4学期卒業制へ(3学期修業とするほか、引き続き2回落第に依る退学を整備)、明治21年に東京職工学校進学希望者向けの修業年限1年の特別科を設置、明治24年7月に(通算2年半の)5学期制へ規則改定(第5学期の学科過程は、高等代数学、代数幾何学、微分積分、物理学電気、化学、物理学実験。)、同年9月に(農商務省課長の内議に応じて)修業年限を1年(2学期)とする度量衡科を設置、明治25年に通算3年の6学期制に規則改定し第2学期以上に進級を希望する者に入学試験を課して履修科目を「理化学科」「数学科」に分けた、明治26年7月度量衡科廃止、明治27年入学試験を整備し尋常中学校卒業者は無試験で第3学期への入学を許可、明治32年規則を改訂し中学校卒業者、師範学校卒業者は無試験で第二学期へ入学を許可、明治39年に(通算3年)6学期2学科卒業制度へ規則を改定(「尋常科」4学期・「高等科」2学期、「高等科」には「数学科」と「理科学科」を設置;4学期修行とするほか、引き続き3回落第で除名を整備)入学資格を「本校ヘ入学スルモノハ年齢14歳以上ノ男子ニシテ略算術ヲ解シ筆記ニ差支ナキヲ要ス(男子の二字あり)」(P.61,同前)とした、それが、通算6年半年の予科(半年)・別科(6学期制)・本科(3年)/高等師範科(3年)の専門学校になるまでの変遷を見て来た。
※ 東京物理学校規則第4条各号(第4条第2号に該当する専門学校検定試験合格者の特科生扱いから正科生扱いへの変更),東京物理学校学則変更認可,学則、規則に関する許認可文書・専門学校,昭和3年,国立公文書館
なかなかの変遷である。
「坊ちゃん」はこの39年9月の改訂を知らなかったのではないか(明治39年4月1日『ホトトギス』附録に掲載)。
つまりは夜間毎日1時間半から数時間の私塾から始まって、そういうものだから当初は自由に辞めてよく、入学試験があるのかないのか、微積分を教えているのかいないのか(通信質問で答えはじめ、4学期半制度で学科に導入)、途中で職工学校の予備校化したり、農商務省の機関学校化したり、いろいろとあった。
いろいろと誤解もあったようで、それを訂正するとともに、「坊ちゃん」の構成としても、旧制高校(高等中学;大名主の孫なのに養子に出された夏目漱石より3歳若い大庄屋の息子西田幾多郎は、「石川県師範学校」予備科を卒業後、「石川県専門学校」に入学して、同学が改組した国立の「第四高等中学校」を退学したが、奮起して「帝国大学」選科へ入学、4年後卒業した。西田より3歳若い野口遵は加賀藩北海道士族の維新の志士を父に持つ東京育ちで在り、「師範学校附属小学校」を卒業後に進学した「東京府立中学」を退学、進学塾である「成立学舎」で準備し、「第一高等中学校」に入学した。翌年6月には「東京帝国大学」に改称する前の「帝国大学」工科大学電気工学科卒業生である。あまりに誰も触れないので、嘘か真か測りかねるが、電車の運転手と成った。「貧乏儒者」であった父は他界しており、兄弟が居て稼ぐ必要があったらしい。みんなどこかしら屈折している。)と旧制高等師範学校を併設したかのような格好で、物語に反映させるには、「ニュートラル」というより「鵺的」である。或いは、中間(項)的、アマルガム的であり、それが良かっただろうか?太宰治の戦後の混乱を描いた『斜陽』がまだ見ぬ子への希望で終わっているのと対照的である。太宰も東北の大地主の息子である(モデルと成った太田静子は薩摩の士族の出自である。)。『坊ちゃん』と『斜陽』の対比も行われない。「言葉遣い」云々については、むしろ、『坊ちゃん』と比較して欲しい。ちなみに、三島由紀夫の母方の曽祖父は、加賀藩士で儒者であった。身体が弱かった三島と違って、乱暴者だった志賀直哉にしても、中村藩の出自を持つのであるから、そういったコメントを残すべきであった。
その間に日露戦争—1904年(明治37年)2月~1905年(明治38年)11月—と第一次世界大戦—1914年(大正3年)7月~1918年(大正7年)11月—があった。
卒業後は中学校の教員になる者が多かったはずが、本科へは
そうなると、やはり試験免除だったろうか。
(東京物理学校一覧 昭和11年度 , 東京物理学校 編 , 昭11 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
36年の専門学校令によるとこういうことらしい。39年改正では6学期制へ移行したとはいえ、専門学校化しておらず、微妙である。そもそも、専門学校入学資格が、旧制中学校卒業か修業年限が4年以上の高等女学校卒業なので、14歳以上で入学できる物理学校はそれより早い。中学校令の変遷もあるので、そこらへんは、どうなっているのか?「誰でも入れる(誰でもが卒業できない)」物理学校はいろいろと異色である。
「坊ちゃん」の場合、物理学校卒業後8日後に松山中学に行くことを決めたから、少し若いような気がするが、そもそも物理学校が14歳以上で入学できるとあって、父親の死後600円を持参して入学したのであるから、実際のところ、年齢はよくわからない。いや、「街鉄」は私鉄なので、20歳とは限らない(まだ調べていない)。
とにかく、試験に関しては、そういうことと考えてそれほど間違っていないような気がするがどうだろう。
東京留学独案内 増補2版 , 下村泰大 編, 和田民之助 補 , 春陽堂 , 明18.10 - 国立国会図書館デジタルコレクション
こちらは12歳入学と成っている。