東京物理学校を卒業して松山中学へ赴任し、退職してから東京市街鉄道株式会社に再就職するというのは、なかなか不思議な経歴だったんじゃなかろうか。
なにしろ、現在なら、大学生が中学校の先生に成って、中学校に何年赴任したのか(夏目漱石なら1年だった。)まだ十代のうちに、東京に舞い戻ったなら、本当に「街鉄」に入社できたのか?
試験に関してはハードルをクリアしたが、年齢がひっかかる。なにしろ、専門学校は、原則(4カ年以上の高等女学校卒業でもよいが)、旧制中学校を卒業して3年なのだ。20歳である。ところが、東京物理学校は、促成が過ぎて(旧制中学2年修了で入学の上※、本科3年の、石川県工業学校なら「促成」コースであって、5年の「本科」コースではない;ただし、石川県工業専門学校の入学者が旧制中学校性からの横滑りであるとかは知らない。すなわち、尋常小学校卒業程度だったかもしれない。それだとスッキリ理解できる。)、最速で18歳に満たないのだ(9月予科入学が仮に可能だったなら、半年後の4月に本科進学、3カ年で卒業である)。赴任が1年だと18乃至19歳である。
官庁同等の募集要件(20歳~46歳)なら、微妙である。
東京物理学校入学前にもたもたしていたか、松山中学校の勤務年数が2年程度だったか。
※旧制中学校からの横滑り入学とは限らないが、東京物理学校は、「ほぼ(高等)師範学校」で(反対に、師範学校卒業生が、必ず教員になったとは限らない。)、ただし、専門性が高かったと言えるのだろう(現在なら、専科教員なのだが、小学校で専科教員はまだ珍しくても、中学校なら当たり前である☞師範学校 - Wikipedia、高等師範学校 - Wikipedia。こういった事情がある中での専門性であったと考えるとよいだろうか。「高等師範学校」相当の「専門性」であるという意味である。
なるほど、中学校は当初(大学ができる前)、大学を卒業した者が教えることになっていたのか(その「大学」とは「帝大」ではなかっただろうか。要は、帝国大学に成る前の東京大学であるが、それもなかったころの話か)。
学制は変遷が激しい。
旧制中学校(5年制)2年修了で師範学校に進学できた。
そうなると、物語上、別に高等師範学校出身の先生でもよかったような気がしないでもないが、「赤シャツ」(モデルの一人は漱石自身。)の帝大出との比較と松山中学校生と師範学校生との確執のためだろうか。ニュートラルな存在に「近い」というわけだ—そこら辺はうまくぼかして、実際はわからないようになっている。「本当」は中学2年修了かもしれないし、39年当時の物理学校自体が「実質」(高等)師範学校だったかもしれないのだ。高等師範学校出身なら、帝大出身と対照的であるし(なにしろ、その後、師範学校による、帝大に対抗した政治運動の様相も帯びる、新教育運動が始まる)、「資格から云うと師範学校の方が上だそうだ」(『坊ちゃん』本文)が、高等師範学校なら「もっと上」である。
野口遵がモデルだとスッキリするが、なにしろ野口はエリートなので、立身出世を果たしてしまう。新興財閥を率いて「朝鮮王」となる「坊ちゃん」は想像しにくい。
時系列をあらためて整理すると。
その年の四月におれはある私立の中学校を卒業する。六月に兄は商業学校を卒業した。
その年の四月におれはある私立の中学校を卒業する。六月に兄は商業学校を卒業した。兄は何とか会社の九州の支店に口があって行ゆかなければならん。
九州へ立つ二日前兄が下宿へ来て金を六百円出して
おれは六百円の使用法について寝ながら考えた。(略)これを学資にして勉強してやろう。六百円を三に割って一年に二百円ずつ使えば三年間は勉強が出来る。
幸い物理学校の前を通り掛かかったら生徒募集の広告が出ていたから、何も縁だと思って規則書をもらってすぐ入学の手続きをしてしまった。
三年間まあ人並ひとなみに勉強はした(略)三年立ったらとうとう卒業してしまった。
卒業してから八日目に校長が呼びに来たから、何か用だろうと思って、出掛けて行ったら、四国辺のある中学校で数学の教師が入る。(略)この相談を受けた時、行きましょうと即席そくせきに返事をした。
ということだが、物理学校は、中学校卒業の者は、25年規則改定なら、(6学期3年中)第3学期からの2年、26年規則改定なら、第2学期からの2年半であったはずである。いつの時代の物理学校の話なのか。
麻布あざぶの聯隊れんたいより立派でない。
私立の中学校を卒業したというので、
中学校に居た時ウィッチと云う言葉を習った事がある
その後明治28年(1895年)7月に東洋英和学校は江原素六により2つに分割され、神学生と神学候補性のみで英和学校を組織し、普通科生の大部分を以て麻布尋常中学校を設けた[29]。
かも知れない。知らない。ただ、
ことに語学とか文学とか云うものは真平まっぴらご免めんだ。
ということだ。
物理学校の卒業にあっては、もとより、明治19年の校舎移転の前年に規則改定し
高等中學科及高等師範學科ノ程度ニ準ジテ
としていたのであるから、
おれは三年間学問はしたが実を云うと教師になる気も、田舎いなかへ行く考えも何もなかった。
というので、卒業後は、どうするつもりだのか。
進学するつもりはあったのか?
なお、翌明治20年に規則を改定し、
目的に於て「高等中學科及高等師範科」を削り
としているが、これは、24年9月の規則改定で、農商務省の内議に応じて「特別科」を設置しているが、関係があっただろうか?(さすがに牽強付会で、「ない」か。「特別科」は翌々年明治26年7月廃止)。大正5年の規則改定で「高等師範科」を設置するまで、曖昧になる。おもしろいことに、
明治三十年二月、第一學期生徒多數に上れるを以て、晝夜二組を設く。是より先、明治二十二年九月、始めて畫組一設けたりしことあり。
ようやく夜学を脱したかと思いきや、
授業ハ主トシテ夜間ニ之ヲ行フ
具体的には、大正3年9月に
午後四時半より九時半までを改めて五時十分より九時十分まで
でさらに後年改定があって、結局(昭和5年現在で)、
第一部ハ午後一時ヨリ同四時五十分マデ第二部ハ午後五時二十分ヨリ
となっているので、「坊ちゃん」はいつ通っていたのだ。
とはいえ、
明治四十四年七月、本校卒業者は外國語のみの試驗を以て東北帝國大學理學部の正科に、無試驗にて其の選科に、入學を許すこと
名実ともに、(初の女学生を生んだ、新しい)東北帝国大学(明治40年9月設置※)に限るとはいえ、旧制高校並みの扱いとなっていた(また、同時期の明治42年に、中等教員検定試験規則改定に際して東京物理学校卒業生の受験資格を得たため、「師範部」を設置した。単なる塾でも、予科でもない。あくまで目的は理学の普及にあって、事業の拡大を進めたらしい)。
※面白いことに、文相の菊池大麓は、帝大増設に反対し、専門学校の設立を望んだとか。そのおかげだろうか?東京物理学校から東北帝国大学への進学への途が明確になった。その後、東京物理学校が専門学校化したのは、大正4年であった。
「坊ちゃん」が東京物理学校に進んだのは、「親ゆずりの無鉄砲」で誤魔化されているが、結構、不思議な話であった(いや、教師の側の都合だったろうか?)。勉強嫌いの「坊ちゃん」は、在学中、昼間は何をしていたのだ?
(時期にもよるが)旧制中学校を卒業したので、2年半で済むところを、勉強しなかったので落第でもしたのか、そのせいか「なぜか」3年で卒業をし、いや、自分でも不思議がっていたが(入学者数に対して卒業生の少ないこの学校で)何年だろうとともかくもなぜか卒業をし、中学校教員になるのが普通のキャリアのところ(だから、校長から紹介もあったのではないかと思うが)、何をするつもりだったのか、「なぜか」中学校に赴任した。
東京物理学校は、主に夜間に教える
※開学当時から教員を対象として教えていたが、最終的に(昭和5年現在)、本科/高等師範科の卒業生と専攻に関する中学校教員免許取得者を対象として、修業年限を2年とする、数学部、物理学、化学の3学部による「専攻科」を設置した。
がないまぜになった不思議な学校だったが、キャリア形成を考えると、(大学への進学もあり)現在の高等専門学校(所謂「高専」)に近いようでいて、決定的に違うのは、実業教育がない(教養課程のみ)ということだろう。
そこが帝大へ進学して、在学中に水力発電所を設計した野口遵と異なる点のようだ。
つまり、勉強嫌いの「坊ちゃん」が、「街鉄」へ入社して、おそらく「判任官俸給8級(初任給)」程度の月給25円を受けたわけだが(中学校は40円;判任完5級相当)、
(例規類纂 , 鉄道作業局建設部 , 明33.11 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
上の表は(前頁から続いて)明治33年の判任官の俸給表なのだが(技手は判任官)、大正7年になると、5級55円、8級30円に上がっているのか?等級が異なるのか?
(青年と職業 (青年文庫 ; 第5編) , 日本青年教育会 編 , 大正7 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
markovproperty.hatenadiary.com
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当時の「技手」が(「技師」と異なることがわかるにせよ)何を意味していたのか、
学問以外に個人の徳化を及およぼさなくては教育者になれないの、と無暗に法外な注文をする。そんなえらい人が月給四十円で遥々はるばるこんな田舎へくるもんか
と言っていた。
(青年と職業 (青年文庫 ; 第5編) , 日本青年教育会 編 , 大正7 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
「鉄道員」の紹介に「電信技手」という職種はあるが、電車ではないかもしれない(「火夫」が居る)。
意外なことに、上掲『青年と職業』で東京物理学校がまったく触れられていない。
(鉄道に就職して)「技術見習い生」になるのは東北帝国大学他かそれと同等の学力ということなので、どうだろう?東京物理学校から東北帝国大学への進学の道が拓かれたのは意味があっただろうか。
現在なら、こういうことであって就職後に設計を一から教わることはなさそうだが、
明治にあってはどうだったのか?と思うところはある。
https://www.col.mlit.go.jp/pdf/pamphlet.pdf
『坊ちゃん』には
おれみたような無鉄砲むてっぽうなものをつらまえて、生徒の模範もはんになれの、一校の師表しひょうと仰あおがれなくてはいかんの、学問以外に個人の徳化を及およぼさなくては教育者になれないの、と無暗に法外な注文をする。
とあって、多方、野口は、
(今日を築くまで , 野口遵 述, 安藤徳器 編 , 生活社 , 昭和13 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
と言ったのである。漱石は、『僕の教訓なんて、飛んでもない事だ。』と
月給さへ渡つてゐればちつとも差支ない。だから僕は僕一人の生活をやつてゐるので人に手本を示してゐるのではない。
まるで「坊ちゃん」のようなこと言うのだが、
命のやりとりをする樣な維新の志士の如き烈しい精神で文學をやつて見たい。
こういう人であった。