要は、「坊ちゃん」の「物理学校出身」がとってつけだろうと思うのである。
勉強嫌いで、嫌いならなんでも同じだが、もっとも嫌いな語学、文学寄りのミッションスクールから離れて、14歳で物理学校に入って中学卒業までの3年分の学費を充てたならすんなりわかるが、それだと、退職後「街鉄」にすぐに再就職できたか。
旧制中学校を卒業して半年後、東京物理学校に後期入学し、2年半通ってから中学校へ赴任したなら、就職までに20歳に到達している。東京物理学校をどこかで1学期落第したなら、3年通ったことになる(その分街鉄への再就職も遅れるが、それは構わなかったのだろう)。
旧制中学校卒業後の進路であるが、旧制高等学校(明治27年に高等中学校が改組)へ進学するにしても、2年程度の進学塾に通うのはありえたかもしれない。
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一中を卒業しても。
石川県学事年報 第25-29 , 石川県 , 明21-36 - 国立国会図書館デジタルコレクション
金沢英和学院には、4年の正科と2年の英文科があり、旧制高等学校への進学実績もある。
さて、東京物理学校と似たような経緯を辿った、西の立命館大学、東の早稲田大学。
この2校は「大学部」を設置したが、東京物理学校は「専攻科」を設置した。
京都法政学校は夜学であったが、東京専門学校はどうだったか。
乃木希典の自死に白樺派は冷淡だったわけだが、夏目漱石はどうだったか、ということである。
『坊ちゃん』は日露戦争終戦翌年の明治39年、『こゝろ』は改元後の大正3年であった。
『こゝろ』では晩婚化に触れているが、こういった時代の変わり目にあって、進学者が増えたことも背景にあったのではないかと思う。『坊ちゃん』でも結婚は触れられている。世代間の社会意識の差を反映しているだろうか、それとも「学士様」(ではないが、専門学校化する以前ながら—中等教育機関である旧制中学校の教員になるので—「高等教育機関」と言ってしまってよいか、少なくとも中等以上の教育を受けた者)への関心の高さだったか。
規則改定毎の新旧対照表があると助かる。
あと、
母が死んでから六年目の正月におやじも卒中で亡くなった。その年の四月におれはある私立の中学校を卒業する。六月に兄は商業学校を卒業した。兄は何とか会社の九州の支店に口があって行ゆかなければならん。
もとより「おれ」が過去を振り返っているのであるが。
現在形/過去形のゆらぎ。
そう考えると、『坊ちゃん』はいろいろな問題が糊塗されていて、
- 「坊ちゃん」の進学(中学校卒業生の進路問題)
金沢第一中学校と金沢英和学院らとの比較(ダブルスクール、予備校か) - 「坊ちゃん」と反"woke"(反道徳主義)
大正時代の「新しい女」小森和子のキャリア形成—東京府立第三高等女学校とYMCAらとの比較 - 「坊ちゃん」とジェンダー
維新のエートス(鈴木三重吉との書簡)と士族言葉(cf.『斜陽』) - 「坊ちゃん」と理系男子
日露戦闘ー第一次世界大戦の戦間期における、理系大学の躍進と久原財閥の勃興 - 「坊ちゃん」の社会階層(高等教育機関の整備と都市型新階層の出現)
中学卒業生の受け皿と「早稲田大学」(専門学校令による専門学校)の勝手呼称 - 「坊ちゃん」の結婚(晩婚化傾向と戦争問題—日比谷焼討事件と地方の不満)
- 「坊ちゃん」の孤独(日露戦争後の孤独問題)
第一次世界大戦後に社会問題化した「孤独」と「変態」 - 「坊ちゃん」のこころ
「愛」と「恋愛」
『坊ちゃん』は日露戦争がなかった神話的な世界の物語である(スサノオ伝説の話型)。
『坊ちゃん』と『こゝろ』は連続していると見た方がよいし、『坊ちゃん』と『斜陽』は対照的と見た方がよい。
このような日露戦争と関連して、夏目漱石は新体詩『従軍行』を1905年5月に、小説『趣味の遺伝』を1906年1月に『帝国文学』に発表している。
「仁愛」とは何かと思ったが、最後の涙のことらしい。
余は色の黒い将軍を見た。婆さんがぶら下がる軍曹を見た。ワーと云う歓迎の声を聞いた。そうして涙を流した。浩さんは塹壕ざんごうへ飛び込んだきり上あがって来ない。誰も浩さんを迎むかえに出たものはない。天下に浩さんの事を思っているものはこの御母さんとこの御嬢さんばかりであろう。余はこの両人の睦むつまじき様さまを目撃するたびに、将軍を見た時よりも、軍曹を見た時よりも、清き涼しき涙を流す。博士は何も知らぬらしい。
ここで謂う「趣味」とは
おそらくカントである。ただし、カントが謂う「共通感官」(Gemeinsinn)という原理であるが、漱石の場合は心理学に置き換わっている。「遺伝」については、要は、脳の作用のことではないかと思う。しかし、妄想ではない(少なくとも、漱石の主張に於いては)。
ドーキンスのミームが近いような気がするが、ドーキンスを漱石が知るはずがない。
美を直接テーマにしたものに、
がある。ここで涙を見せるのは、誰か。
『趣味の遺伝』に関しては、これがスッキリと理解できるが、
金子大栄と夏目漱石の付き合いを知らない。師匠の清沢満之は漱石と親交があったのか。
官報によると『真宗聖典』は明治37年に刊行されたらしいが、金子の言葉がいつのものかわからない。
また、『趣味の遺伝』と対照をなすものに、あの『小僧の神様』がある。
日露戦争が1904年(明治37年)2月-1905年(明治38年)9月。
趣味の遺伝(1906年1月、『帝国文学』/『漾虚集』収録)
第一次世界大戦が、1914年(大正3年)7月28日から1918年(大正7年)11月11日。
『小僧の神様』が、1920年(大正9年)に雑誌「白樺」1月号。
趣味の遺伝 - Wikipedia
夏目漱石 - Wikipedia
出歯亀事件は日露戦争後の明治41年。
出征後のPTSD(当時は「シェルショック」と言われたらしい。)を原因とする離婚許可が世界的に議論されるようになったのは、第一次世界大戦後。ブルガリアはDV(癇癪)も離婚許可原因であったらしい。
漱石の—「愛人」と言えば正岡子規だが※ー親友にもうひとり興味深い人が居て、
※大正期(白樺派)以降の「恋愛」に至らない、前世紀的な—リンカーンにも見られる—友情以上の「愛」(リンカーンは怪しいが、漱石の場合は、性愛関係ではないと思う。ただし、漱石の場合、「ロマンチック」でもなく、時には厭うような複雑な感情。腐れ縁。正岡子規は伊予松山藩士の子)
実は石川県関係者で、
(秋田県立横手中学校長太田達人外二十一名叙位ノ件○高知県農業技師望月平太郎)
(大阪府立北野中学校一覧 自明治40年至明治41年 , 大阪府立北野中学校 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
ちなみに、給料は、年俸で840円(1895年明治28年29歳月換算70円)、960円(1896年明治29年30歳月換算80円)、1000円(1898年明治31年32歳月換算84.4円)、いずれも石川県尋常中学校教諭時代である。「坊ちゃん」は20歳のときに初任給40円で中学校へ赴任して、退職後25円に下がったけれど、10年辛抱していたら、倍増していただろうか?
「天」に関して、帝大生に人気が高かった西郷隆盛や、或いは、報徳思想の一木徳次郎或いは近江商人、作家では、士族出身の徳田秋声と比べてどうだったか。
寄付はともかく、一人称はやっぱり「おれ」だったらしい。