ほどだったのかは疑問であり、「坊ちゃん」の街鉄就職試験に「微分積分」の出題があった場合、物理学校で、「初等算術」は当然のこととしても、「微分積分」の検定に合格できていたのか。
物理学校出身の数学史家片野さんのレポートに着目して、追記した。
著者の片野善一郎さんがあの東京物理学校の卒業生で、それについてエッセイを書いている。
「坊っちゃん」が物理学校卒業という設定になっているのは、漱石自身が同校の設立者(東京物理学校維持同盟員)である桜井房記・中村恭平と親交が深かったほかに、当時の一般的イメージとして物理学校出身教員が高い評判を得ていたことも関係していると考えられている[2]。
明治10年代の化学教育の一断面――東京物理学校の創立 / 片野善一郎/32~36
(科学史研究 (73) , 日本科学史学会, 1965-01 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
(東京物理学校五十年小史 , 東京物理学校 , 1930 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
(東京物理学校一覧 昭和11年度 , 東京物理学校, 昭11 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
「高い評判を得る」ほど多くの卒業生が居たかね(全国から入学し、卒業後は全国に就職)?数学科の卒業生は毎年10人程度だよ。赴任する中学校の数にもよるが(中学校に赴任するかもわからない)。
(十一、最後の〝生き証人〟 理科の教員養成学校,馬場 錬成; わたなべやすひろ. 物理学校: 近代史のなかの理科学生 . Ashibi production. Kindle 版. より抜粋)
前年度(38年度)は、数学科全合格者数68名の内、物理学校出身者数が40名で、物理学校合格率が58.9%となっている。
あくまで師範学校との合格者数の合算で在り、また、合格者数なので、赴任数と異なるうえ、当時の配置状況と地方への配置の偏り(濃淡)もわからないが、徐々にポゼッションを増やして存在感を増してはいたようだ。感覚的には、私たちが過ごした地方の公立小学校で「あの先生は旧師範学校出身」と言われたくらいの割合だろうか。
20年9月から21年7月までの入学者数が443名退学除名数が262名(差は181名;各年度の就学期間は9/11~7/10)。これは内数なのか、関係がないのか(内数だとすると、2年次はさらに減るのか)。
なお、臺灣(台湾)の度量衡に貢献した度量衡科出身山田伸吾(第13回明治26年2月卒業)は熊本出身である。
こうした状況を背景に制定された高等師範学校規程は高師における中等教員養成の任務を再確認する意味を持ち、同時期に制定された中等教員の免許規則においても高師卒業生が中等教員の本体と規定されることとなった。
これにより高師は貧困層出身の優秀な子弟を生徒として吸収することに成功し、彼らに卒業後長期間の服職を義務づけ国家主義的教育の忠実な担い手とする結果を生んだのである。
- 反帝大
- 反高師
の結果じゃないかね?
野口遵がモデルだが、帝大出身だから避けたと考える方が自然ではないか。
は加賀藩出身。
中学と師範とはどこの県下でも犬と猿さるのように仲がわるいそうだ。なぜだかわからないが、まるで気風が合わない。何かあると喧嘩をする。大方狭せまい田舎で退屈たいくつだから、暇潰ひまつぶしにやる仕事なんだろう。おれは喧嘩は好きな方だから、衝突と聞いて、面白半分に馳かけ出して行った。すると前の方にいる連中は、しきりに何だ地方税の癖くせに、引き込めと、怒鳴どなってる。後ろからは押せ押せと大きな声を出す。おれは邪魔じゃまになる生徒の間をくぐり抜けて、曲がり角へもう少しで出ようとした時に、前へ! と云う高く鋭するどい号令が聞きこえたと思ったら師範学校の方は粛粛しゅくしゅくとして行進を始めた。先を争った衝突は、折合がついたには相違そういないが、つまり中学校が一歩を譲ゆずったのである。資格から云うと師範学校の方が上だそうだ。
物理学校は当時、入学は誰でもできるが卒業するのはきわめて難しいので評判になっていた。しかし「坊っちゃん」には、次のように書かれている。 「三年間まあ人並に勉強はしたが別段たちのいい方でもないから、席順はいつでも下から勘定する方が便利であった。然し不思議なもので、三年立ったらとうとう卒業してしまった。自分でも可笑しいと思ったが苦情を云う訳もないから大人しく卒業して置いた」 これは恭平や桜井から聞いていたであろう物理学校の状況とは正反対に描かれている。多分、漱石のいたずら心、ユーモアが意図的に正反対の状況を書かせたに違いない。
「 馬場 錬成; わたなべやすひろ. 物理学校: 近代史のなかの理科学生 . Ashibi production. Kindle 版.
(日を築くまで , 野口遵 述, 安藤徳器 編 , 生活社 , 昭和13 - 国立国会図書館デジタルコレクション)(財界不連続線(五 野口遵(余が半生を語る)/140) , 安藤徳, 昭13 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
同じインタービューからの記事である。多少表現が異なっている。
安藤は何回書いてんだ。
理科の教員養成学校
入学は誰でもできるが卒業は難しいという物理学校の評価は、社会の中に定着していた。物理学校卒業生の多くは教員検定試験に合格し、全国の中学、高校の数学、物理、化学の教師として赴任していった。たいていの中学、高校には、物理学校出身の教師がいるという状況になっていく。数学は、算術・代数・幾何、三角法、解析、微積分の四科目が独立した免許状になっていたが、大正一一年からは数学だけの免許状に一本化された。 物理学校高等師範科の卒業生は、大正九年三月の卒業生から、無試験で検定合格扱いになる。文部省が専門学校の卒業生に、このような制度を適用するのは例外であった。物理学校の卒業生がいかに評価されていたか分かる。
馬場 錬成; わたなべやすひろ. 物理学校: 近代史のなかの理科学生 . Ashibi production. Kindle 版.
下線強調は引用者。
そうすると
1に関して言えば、野口は、東大工学部電気科在学中に、すでに、福島の水力発電所を設計していたということで、発電計画の流量計算で微分方程式を使ったであろうから、おそらく(当然に)、「鎌倉ー江の島」間を走った鉄道の入社試験で微分積分が出題されても解けただろうと思う。明治25年から3年制になって微積分を教えるようになったから、「坊ちゃん」は微分積分を習っているとしても、14歳(以上)からの3年間なので、内容が、要は、現在なら、中学校2年生、3年生、高校1年生レベルが相当と考えられるが、『明治10年代の化学教育の一断面――東京物理学校の創立 』(科学史研究 (73)P.37 , 片野善一郎)に掲載されている、修業年限2年当時(明治20年)のカリキュラムを見てもそうだったようで※1(要は、これに微積分を含む1年分の講義内容が加えられた。)—片野は「これ以上のことは望めない」と評している—、要は旧中学校教師の即戦力としてそこで教えられる内容に即して最低限のことした教わっていないのだ。現在なら、高校でさらに学ぶし、大学へ行っても「数学」の履修はある。野口なら、当然、旧制中学の数学はもとより、旧制高校の数学、大学の数学を学んでいる。
これが(物理学校)高等師範科へ進学するなら、さらに2年程度※2学ぶこととなるが、2に関してどうだったか、ということである。
※1 修業年限2年で4学期制ということは、長期休暇を挟んで前期(9月~1月)後期(2月~6月)に分かれただろうか。それとも抜粋したのだろうか。(就業期間9/11~7/10にあって)2~6月/9~1月の表示となっている。
※2 旧制高等学校が、当初の2年制から3年制へ移行したことに比べて、どうだったか?
全国から俊才を集めて、卒業が難しいことで知られた学校だったが、カリキュラムとしてはいたって「標準的」で、ともすれば、「師範学校ほどではない」かもしれなかったのが実情ではなかったか(講師陣の豪華な陣容を見ると、意外である。学生自身が高度な内容に到達しなくても、高度な内容から敷衍された指導を受けていただろうか。現在なSuper Science Highscoolのようであるが、SSHは「SSHとしてのカリキュラム」を持っている)。しかし、専門性ももって、今で言うなら「専科教員」としての、矜持と指導内容を持っていたかもしれない。
(鉄道各職員受験準備完成 : 実務兼用 , 帝国鉄道倶楽部編輯局 編 , 三友堂 , 大正8 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
「坊ちゃん」も覚えただろうか?
電気鉄道機械器具図解 , 東京市街鉄道株式会社車輛課 編 , 電友社 , 明38.7 - 国立国会図書館デジタルコレクション
(例規類纂 , 鉄道作業局建設部 , 明33.11 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
開始時(修了時)の年齢 → | 12歳(13歳) | 13歳(14歳) | 14歳(15歳) | 15歳(16歳) | 16歳(17歳) | |
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旧制 | 国民学校 | 高等科1年 | 高等科2年 | 特修科 | ||
中学校 | 1年 | 2年 | 3年 | 4年 | 5年 | |
高等女学校 | 1年 | 2年 | 3年 | 4年 | 5年 | |
実業学校 | 1年 | 2年 | 3年 | 4年 | 5年 | |
青年学校 | 普通科1年 | 普通科2年 | 本科1年 | 本科2年 | 本科3年 | |
高等学校 | 尋常科1年 | 尋常科2年 | 尋常科3年 | 尋常科4年 | 高等科1年 | |
師範学校 | 予科1年 | 予科2年 | 予科3年 | |||
大学 | 予科1年 | |||||
新制 | 中学校 | 1年 | 2年 | 3年 | ||
義務教育学校 | 7年 | 8年 | 9年 | |||
高等学校 | 1年 | 2年 |
明治專門學校學則及要覽 - 国立国会図書館デジタルコレクション
いわゆる「街鉄」の入社試験は見つからなかったが、官庁の鉄道技手(文官判任官)の試験規則を見つけた。
どうも、旧制中学校卒業程度で、「数学」が「算術、代数、幾何、三角」となっていて、物理学校で習う内容と同じようだ。
文部省教員検定試験数学科問題解義集 - 国立国会図書館デジタルコレクション
これと同程度ではないかと思う。
試験の免除は、「専門学校卒業程度」で、これが中学卒業後に4年通うのであるから、なるほど、20歳で就職となるのだが、これが専門学校令による専門学校なら、最終学歴が物理学校卒業の「坊ちゃん」には無理なようだ。
ただ、石川県立工業学校は、「中等学校」という位置づけということで、どうもここらへんがよくわからない。促成3年、本科5年である。
(道庁府県立学校表 明治24-26年 , 文部省 , 明23-28 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
金沢区工業学校から石川県立工業高等学校へ(その1) | 県工130年の歴史 | 石川県立工業高等学校同窓会
39年改正(4学期制から6学期制へ:6カ月/学期×6学期)
8年改正(予科半年ー本科・高等師範科3年/別科6カ月/学期×6学期)
(東京物理学校五十年小史 , 東京物理学校 , 昭和5 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
専門学校令にしたがう専門学校とはなったようだが、どうも、予科があるとはいえ、石川工業学校で謂う「促成」コースと同等の就業年限のようだ(要確認)。
そうなると、やはり試験免除だったろうか。
(東京物理学校一覧 昭和11年度 , 東京物理学校 編 , 昭11 - 国立国会図書館デジタルコレクション)
36年の専門学校令によるとこういうことらしい。39年改正では6学期制へ移行したとはいえ、専門学校化しておらず、微妙である。そもそも、専門学校入学資格が、旧制中学校卒業か修業年限が4年以上の高等女学校卒業なので、14歳以上で入学できる物理学校はそれより早い。中学校令の変遷もあるので、そこらへんは、どうなっているのか?「誰でも入れる(誰でもが卒業できない)」物理学校はいろいろと異色である。
「坊ちゃん」の場合、物理学校卒業後8日後に松山中学に行くことを決めたから、少し若いような気がするが、そもそも物理学校が14歳以上で入学できるとあって、父親の死後600円を持参して入学したのであるから、実際のところ、年齢はよくわからない。いや、「街鉄」は私鉄なので、20歳とは限らない(まだ調べていない)。
とにかく、試験に関しては、そういうことと考えてそれほど間違っていないような気がするがどうだろう。
東京留学独案内 増補2版 , 下村泰大 編, 和田民之助 補 , 春陽堂 , 明18.10 - 国立国会図書館デジタルコレクション
こちらは12歳入学と成っている。