廃校していた4

麻布と一中の歴史も重ね合わせてみた。
麻布中学校は一中をうまく利用したような格好だが、同系列の「北陸英和学校」は逆に勢いを吸収されたとの仮想だ。1899年(明治32年)に私立学校令が公布(翌年施行)され、「文部省訓令第12号により公認の学校での宗教教育が禁止」(P207下掲後藤田)になったことが大きかっただろうか、廃校となった。「明治学院や青山学院などが認可を取り消され各種学校となった」(〃)。「金沢英学院」は1895年に陸海軍受験科を設けるなど改革を続けたが、「各種学校」に留まり、中学校化できなかった。

D.R.マッケンジーと金沢英学院,後藤田 遊子,北陸学院短期大学紀要 (30) 203 1998年

加藤広吉は3年学んだが、あらためて読むと、中学校卒業生が高校予備校の代わりに修業年限の3か月から1年だけ通うものと変わっていったらしい。

かつてオランダ医学者の起居に準備した兼六園広坂通りの500坪の土地と100坪の土地で始まった小規模な、平日2時間の英語塾は、学校制度の整備、特に中学校の整備とともに、役割を変えつつ、ついに廃校にいたったようだ。当初の「キリスト教の影響の拡大」「既存学校と競合しない」ことを最後まで忘れなかっただろうか。
熟読して、余力があったら、時系列をあらためて整理できたらよい(石川県史には、1890年正則英語学会の設立を始まりとして、翌年私立金沢英学院に改称したとある。)。次々にいろいろなことがわかるので、雑になった。

四高に金を出したのも前田家なら、金沢英学校(日本基督教団金沢長町教会)も、金沢一中に土地を出したのも前田家だったろうか。権利関係はわからないが。

あと若干関係があるだろうか。麻布への「軍関係」との誤解は、もしかしたら、兵役免除特権のための訓練の内部化にあったかもしれない。これは明治16年から17年の、学制整備の歴史上は早い時期のことだが、中学校はいろいろな意味で、人気が出るように整えられていったのだろうか。

 

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こういった宗教教育との—禁止することはないが—峻別を見ても、大日本帝国はやはり「大陸型」を基調としていたろうかと考えてみるのである。
アメリカ、カナダ(イギリス)からのネットワークも広範に張り巡らされていたようだ。「学校を作る」というのは、どこから財政支援を受けるかも見ることになる。
それはキリスト教に限らず、仏教も同じであったようだが。
「大陸型」とは国家の権威が強いということと裏腹なのだ。