また、論稿内では、『歴史群像』168号掲載の拙稿「参謀辻政信の生涯」も引用頂きました。併せて御礼申し上げます。
— 長南政義(戦史学者) 新刊『児玉源太郎』(作品社) (@bu_bu_bu__) March 12, 2022
新進気鋭の先生がどう評価したか、興味深い。
辻はもっと研究されるべきだと思う。
ただ、今のところ、ようやく辻が補欠合格でなかったことが明らかになったくらいで、生い立ちに関する情報が「?」となる。
例えば、隣県「寒村」出身の、瀬島龍三がどうだったか。
彼は名士の息子であって、生活が困窮していたわけではない。
辻の場合、
https://www.rieti.go.jp/jp/publications/dp/17j040.pdf
三反歩は、要は、小作ということなのか、山間部で大きな田んぼがないということなのか、注意を要する。
炭焼きについては、労働集約的な換金しやすい商品で、それで「苦労」しただろうが、その苦労が生活の営みを意味するのかが自明でないのは、安定供給のための買い上げ制度があったからだ。つまり、安定収入があった可能性がある。その場合規模が問題となるが、道場を経営していたというのであるから、
寺院がない環境でも有力農家は自宅を「念仏道場」として開放し、道場主として布教に努めた。
一概にどうとは直ちに言えないが、果たしてどうか、と思うところはある。
幼年学校出身者については、
ということもある。
辻政信の場合、中学校進学なら、石川県立小松中学校(旧石川県立第四中学校。明治40年~)に通うことになったかもしれないが、
https://www.city.komatsu.lg.jp/material/files/group/39/414tyugakko.pdf
誘致に同意した周辺20村に含まれたかどうかということもあったせいで難しかったのかもしれないが、これは憶測の域を出ない。
要は、
- 生活に関する階級神話
- 学歴に関する階層神話
がごっちゃになっていて、「民主主義の学校」たる軍隊に在って、輿望を担うのに必要だったのかもしれないと思う。瀬島だって貧乏自慢をしたし、秋山兄弟は、やはり貧乏な中での刻苦勉励が美談となっている。
当時もっとも先鋭的な民主主義機関であった軍隊にあっては、そうでなければならなかったのだ。
同じ旧江沼郡(加賀市、小松市の一部)関係者に、上杉慎吉が居て、上杉は大聖寺藩の藩医の息子であるが、生地が旧江沼郡だったわけではない。ただ、上杉も、尋常でない努力が語り草となっている。そういう文化を持った土地柄なのかもしれない、