👇は「これぞわれらの目指した国民文学」と杉浦民平に言わしめた

杉浦明平 - Wikipedia

彼の主唱した「一国防衛論」とは旧第9師団のことではなかったのか。

彼の最大の政敵は岸信介で、彼の政治的目標は、石原莞爾の東亜連盟だが、いつごろからか、それは無理だと悟ったが、北ベトナムへ行かざるを得なかったのではないか。

彼は命を中共に握られていたのではなかったか。

日本に共産党学生運動に主導される革命など起こる可能性はまったくなかったが、旧第9師団を主力とした旧軍によるクーデタを服部と辻は構想していたのではなかったか(背後に、ソ連、中国がいるかどうかだが、辻は、鳩山一郎日本民主党の立ち上げを助けたらしい。しかし、冷遇された。岸は厚遇されている。辻はアメリカから睨まれていると自覚していたらしい)。


それより興味深いことに、ところが、『潜行三千里』は、なかなか辛辣な評価を受けている。
しかし、これを、杉浦は「国民文学」と言ったのだ。
ここで辛辣な評価を受けているのは、辻のエリート参謀へのイメージからだが、辻ほどそのイメージの払しょくに軍人時代、政治家時代を通じて務めた者はいない。
ならば、反対に、今の辛辣な評価も辻だからこそではないか(それをひっくり返すのが辻の真骨頂であったはずである※)。
そこに辻を「国民作家」たらしめた秘密が在りそうだ。
「大正新教育」や「社会主義リアリズム」のような「国語として教える『国民文学』」でもなく、「昭和デモクラシー」の旗手だったか、この大衆の中で自然と立ち上がった『国民文学』という戦後文学を考えるうえで非常に興味深い。

※辻とはまことに凄まじい男で、岸を「敵」と見做すと、選挙運動ではまっさきに岸のおひざ元に行って、大義を掲げて正々堂々と岸の悪口を言いまくるのだ(なお、胃の摘出手術を受けた後だったらしい)。そうして全国3位の得票を稼ぐのである。

news.yahoo.co.jp

意気込みはわかるけれども。
これも、「ヒトラー」、「マルクス」の類で、人的要因か、構造的要因かの二項対立に於いて(要は、0/100)、善か悪かの二項対立を偲ばせるやり方であって、〈発達〉を無視しているように感じられる。

牟田口は緩い人間だったのだろう。
これだとただの凡将という評価に落ち着くことになると思うが、そうではなく、そこに〈発達〉でdriveかけてやると、評価が割れる、、、、、、わけだ。

これはもう一つの独立したパラメータの存在を示唆しており、それが〈発達〉だろうと思う次第です。
つまり、彼のキャラクター(性格)、テンパラメント(気質)とは別の第三の生得的な(発達因)とでも呼べるような分岐的な能力であり、成長と学習の結果どのようなパーソナリティー(人格)が形成されたかが問題となる。

状況から察せされるのは、彼がやたらと言い訳臭いことで、従来これは、キャラクターやテンパラメントで意味を回収して説明を与えてきたことだが、そうではないことも考えらるのではないかと思う。

ヒトラーは悪魔ではないが、普通の人ならだれでもあの状況に置かれてあのような振る舞いを見せるわけではない。ヒトラーは〈発達〉に問題があって、今ならただの社会生活の破綻したバイオレントな人間で、家庭内外で暴力犯罪を繰り返すかしていた程度の男であっただろうと思う。もちろんそれは平凡な家庭乃至社会生活からは常軌を逸していて問題だ。ただ彼だからと言って世界を破滅に導くようなことはない。

ヒトラーにしてもマルクスにしても〈発達〉に問題を抱えていたことをそろそろ歴史学に織り込んでよいと思うが、難しいだろう。直接の「証拠」が挙がりようもない。

牟田口もその類かもしれない。
彼はどうも「常軌を逸して緩い」のだが、それが運悪く時宜を得てしまった。
まぁ、牟田口以前に、石原莞爾がいるが。
石原莞爾を「天才」というのは、もう本当に、やめた方が良い。