東京小説としての東京都同情塔

 

markovproperty.hatenadiary.com

—まず、「主語(文の主語)」「主体(話す主体)」「主題」を区別してください。
文学批評では、ラカンの影響により「主語が大きい」と言われていますか?

Tout d'abord, veuillez distinguer le « sujet (sujet de la phrase) », le « sujet parlant (celui qui parle) » et le « thème (sujet de discussion) ». En critique littéraire, est-il dit que, sous l'influence de Lacan, le « sujet » est considéré comme important ?

Firstly, please distinguish the "subject (subject of the sentence)," the "speaking subject (the one speaking)," and the "theme (topic of discussion)."
In literary criticism, is it said that, under the influence of Lacan, the "subject" is considered important?

ジャック・ラカン - Wikipedia

 

永井均、谷口一平の「n次内包」について

  1. n  (アレフ;濃度)ではだめなのか
    —「マイナス内包」とはそもそも  0  (自然数)を意識したのではないのか
  2. ステブンの謂う表示ではダメなのか
    プラトン的数、アリストテレス的数との違いが、身体論に繋がっているのではないのか
  3. (「実在」に関して)デカルトの謂う心身ではだめなのか
  4. (現代)普遍論争ではダメなのか 
  5. ジェンダー論」とは、、、

つまり、そもそも「主語」と「主題」は区別がつきにくいのだ。
ChatGTP(3.5)は「優秀」で、「Subject(私の質問では「主語」)」では〈が〉構文を、「Topic(私の質問では「主体」)」では〈は〉構文を使うが(☟研究)、ChatGTPはSubjectを「主体」、Topicを「主題」と訳す。
日本語で欧米の議論をするとき、近代の日本語文法が(おそらく、特に英文法の影響を受けて)どのように形成されてきたかを踏まえつつ考える必要まで出てくる。

ここら辺の議論が、そもそも錯綜しているのだ。
鳥も「文法」を持つことが発見されているが、言葉は「規範(繰り返し化)」「抽象(対象化)」「情操(共感化)」と「化」を通じて異なる主体のコミュニケーションの媒介であるから、それだけなのか、もっと根源的な何かがあるのか、関係しているのか、単独なのか、よくわからないようだ。

結局(脳の問題として)、人間の認識能力を超えている、と考える方が「自然な考え方」として受け取られる未来が待っている、というのも、現実的なストーリーとして確かに「ある」。


☞研究 これは私の長年の主張と合致していて痛快事であった。三上文法以来かどうかは知らないが、「取り立て」というアイデアは、十分説明できていなかったように思う。また、だから、日本語に対するコピュラの一般的な説明も誤謬だと信じている(ひょっとしたら、チョムスキーの「普遍文法」或いはそれ以前の   の「一般文法」とも関係してくるかもしれないが—知らないー、日本語の文法と英文法はコピュラが違うと思う。これは想起的な「文法」で※、それこそ内包的に想起される概念ではないのかと思っている。※これは私の妄想ではなく、マイナーだが、数ある文法のアイデアの中にこういう「文法」はある—そうすると、チャールズ・ドジソンの「アリス」の古典論理から形式論理へスムーズに流れるのだ。〈は〉構文は古典的・概念的したがって内包的で、〈が〉構文は形式的・対象的である。日本語文法の歴史的発展過程を見ても、〈は〉は波などが当てられ古代からあり、〈が〉は後世になって、逆接の応用で発展してきたらしいのだ。最初は「が」でなかったとはいえ、"But"の「が」と格助詞の「が」はウィトゲンシュタイン的「家族」だったというわけだ。これはただの想像であるが、文法的な意味より、語の作る心的な規整から利用されたのではなかったか。いや、ただの偶然かもしれない。語の発展はだからややこしい)。


「妄想的」というのは「主体的」で、仮定法はもっと「主語的」ではないか、つまり言語作用に独立して成立するのだから、「言語作用として「反実仮想」が可能である」くらいでよいのではないか?と素朴に思った(批判ではありません。専門家ではないので。知りません)。

それくらい「主語」と「主体」、(話の中の;〈は〉構文の)「主体」と(行為の)主体を日常的に区別して話すのは難しいのだ。